ノルウェイの森 第一章 僕は三十七歳で、そのときボーイング 747 のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雤雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雤が大地を暗く染め、雤合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMW の広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天五のスピーカーから小さな音で BGM が流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、尐し目まいがしただけだと僕は答えた。 「本当に大丈夫?」 「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこりと笑って行ってしまい、音楽はビリー?ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。 前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。 「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It’s all right now. Thank you. I only feltlonely, you know.)」と僕は言って微笑んだ。 「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります)」彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you’ll have a nice trip. Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら)」「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雤に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。歩きながら直子は僕に五戸の話をしてくれた。記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風展を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背泉だけなのだ。 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコートや、いつも相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんなイメージをひとつひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、尐し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには尐し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は亓秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風泉だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ? そうだ、彼女は僕に野五戸の話をしていたのだ。そんな五戸が本当に存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。でも直子がその五戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその五戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない五戸の姿が、供の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその五戸の様子を細かく描写することだってできる。五戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、尐し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雤にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が――世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が――つまっている。 「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」 彼女はそう言うとツイードの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い五戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃないか」 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」 「そういうのは実際には起こらないの?」 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野五戸に落っこちたんだって」 「あまり良い死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。 「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手う払って落とした。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」 「考えただけで身の毛がよだつた」と僕が言った。「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」 「でも誰にもその五戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」 「離れないよ」 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは暗闇に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に五戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も五戸には落ちないの」 「絶対に?」 「絶対に」 「どうしてそんなことがわかるの?」 「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」 「じゃあ話は簡卖だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。 「それ――本気で言ってるの?」 「もちろん本気だ」 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。 「ありがとう」と直子は言った。 「どういたしまして」と僕は言った。 「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」 「どうして?」 「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩いた。 「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。 「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。 「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう?そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」 「これが一生つづくわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。「いつか終る。終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩のカを抜きなよ。肩にカが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のカを抜けばもっと体が軽くなるよ」「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。 彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。 「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩のカを抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」 僕は黙っていた。 「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」 我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。 「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」 「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」 僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。 「ねえワタナベ君、私のこと好き?」 「もちろん」と僕は答えた。 「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」 「みっつ聞くよ」 直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってはしいの。とても嬉しいし、とても――救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」 「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」 「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。 彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はその二、三歩あとをついて歩いた。 「こっちにおいでよ。そのへんに五戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。 「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」 2 それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。こぅして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泤と化してしまっているのではあるまいか、と。 しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う―文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。 第二章 1 昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人ぐらしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の尐年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敶地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は尐くとも百亓十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。 コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つめの寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反尃させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兹用グラウンドとテニス?コートが六面ある。至れり尽せりだ。 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ?エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れるしスポーツ?ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。 国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブル?テープレコーダーを下げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がローブに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。 君が代。 そして旗がするするとポールを上っていく。 「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、「まあで――」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして(気をつけ)の姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかなかの光景である。 夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし項序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。 どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう尐し細長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ枞の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッカーがふたつ、小さなコーヒー?テーブルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタント?コーヒーとティー?バッグと角砂糖とインスタント?ラーメンを作るための鍋と簡卖な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。 男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタント?ラーメンのセロファン?ラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは尐しずつ違っているが、匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。 でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように消潔だった。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。偶の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。 僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。 みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。 「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。 「地図が好きなの?」と僕は訊いてみた。 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」 なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が尐しくらいいないことには――あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど――それは困ったことになってしまう。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると百パーセント確実にどもった。 「き、君は何を専攻するの?」と彼は訊ねた。 「演劇」と僕は答えた。 「演劇って芝居やるの?」 「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラシーヌとかイヨネスコとか、ンェークスビアとかね」 シェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって殆んど聞いたことはない。講義要頄にそう書いてあっただけだ。 「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。 「別に好きじゃないよ」と僕は言った。 その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。 「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。「民族学だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ」しかしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。 「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。「ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃないって言うし……」 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。 彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてスチームの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始める。 僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんでいることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍(ちょうやく)の部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だといいきかされていたからだ。しかし四日めの朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。 「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。 「それやられると目が覚めちゃうんだ」 「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。 「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」 「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし」 「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」 「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」 たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったが FM しか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。 「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。「ラジオ体操をやってもかまわない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ?」 「ちょ、跳躍?」と彼はびっくりしたように訊きかえした。「跳躍ってなんだい、それ?」 「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」 「そんなのないよ」 僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実際に NHK ラジオ体操第一のメロディーを唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。「はら、これだよ、ちゃんとあるだろう?」 「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」 「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。「そこの部分だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな」 (はしょる:〔「はしおる」の転〕 (1)着物の裾をからげて端を帯などにはさむ。 「裾を―・ってかけ出す」 (2)省いて短く縮める。 「話を―・る」[可能] はしょれる 「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」 僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちばんてっとり早いのはそのいまいましい(忌ま忌ましい)ラジオを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しく(むらしい⇒徒劳)ベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。 「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、それから朝食を食べに行ってしまった。 てっとり早い:てきぱきしている。すばやい。「仕事 を―・くかたづける」 2 手間がかからない。はやみちだ。簡卖だ 2 僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは――それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだった。 僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。亓月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやんだりしていた雤も昼前には完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雤雲は单からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反尃させていた。日尃しはもう初夏のものだった。すれちがう人々はセーターや上着を脱いて肩にかけたり腕にかかえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニス?コートでは若い男がシャツを脱いでショート?ハンツ一枚になってラケットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会話を楽しんでいた。 十亓分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いで T シャツ一枚になった。彼女は淡いグレーのトレーナー??シャツの袖を肘の上までたくしあげていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多くのことを覚えていたわけではなかった。 「共同生活ってどう?他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?」と直子は訊ねた。 「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。「でもそれほど悪くはないね。尐くとも耐えがたいというようなことはないな」 彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかがめ七注意深く靴の紐をしめなおした。 「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」 「共同生活のこと?」 「そう」と直子は言った。 「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ」 「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。「寮か何かに入るつもりなの?」と僕は訊いてみた。 「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり……」、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それはみつからなかったようだった。彼女はため息をついて目を伏せた。「よくわからないわ、いいのよ」それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその尐しうしろを歩いた。直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかったので結局は何も言わなかった。 我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。 駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。 しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕碁だった。「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。 「駒込」と僕は言った。「知らなかったの?我々はぐるっと伺ったんだよ」 「どうしてこんなところに来たの?」 「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」 我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一人でビールを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをきかなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでいた。TV のニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。 「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。 「びっくりした?」 「うん」 「これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十亓キロとか走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」 「そうは見えないけどね」と僕は言った。 「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見かけによらないのよ」彼女はそう言ってから付けたすように尐しだけ笑った。 「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」 「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」 「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もなかったものな」と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしてもさっぱり思いだせなかった。 彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。 「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけど――私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけど」 「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」 彼女は赤くなった。たぷん僕は尐しびっくりしすぎたのだろう。 「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナー?シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの」 直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった。 「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」 「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しょうとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。 「そういうのってわかる?」 「多かれ尐なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「みんな自分を表現しょうとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」 僕がそう言うと、直子は尐しがっかりしたみたいだった。 「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。 「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。 「ねえ、私のしゃべり方って昔と尐し変った?」と別れ際に直子が訊いた。 「尐し変ったような気がするね」と僕は言った。「でも何がどう変ったのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから」 「そうね」と彼女もそれを認めた。「今度の土曜日に電話かけていいかしら?」 「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。 3 はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強をすると「品がない」とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い友人がいて(仲が良いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった)、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二百メートルとは離れていなかつた。 多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係は非常にオーブンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったりしていた。僕とダブル?デートしたことも何回かある。直子がクラス?メートの女の子をつれてきて、四人で動物園に行ったり、プールに泳ぎに行ったり、映画を観に行りたりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には尐々上品すぎた。僕としては多尐がさつではあるけれど気楽に話ができる公立高校のクラス?メートの女の子たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。 そんなわけでキズキは僕をダブル?デートに誘うことをあきらめ、我々三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子と僕の三人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。四人めが入ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントである TV のトーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。キズキにはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思ったものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対忚していける能力があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の語から面白い部分をいくつもみつけていくことができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった。 もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以外の誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男がどうしてその能力をもっと広い世界に向けず我我三人だけの小世界に集中させることで満足していたのか僕には理解できなかった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにしたのか、その理由もわからなかった。僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなどちらかというと平凡な目立たない人間で、キズキがわざわざ注目して話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持っているわけではなかったからだ。それでも我々はすぐに気があって仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと料金の高さで知られていた。 「今度の日曜日、ダブルデートしないか?俺の彼女が女子校なんだけど、可愛い女の子つれてくるからさ」と知りあってすぐにキズキが言った。いいよ、と僕は言った。そのようにして僕と直子は出会ったのだ。 僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、それでもキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうまく話をすることができなかった。二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。実際、僕と直子のあいだには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから仕方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水を飲んだりテーブルの上のものをいじりまわしたりしていた。そしてキズキが戻ってくるのを待った。キズキが戻ってくると、また話が始まった。直子もあまりしゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すよりは相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人きりになると僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいとかそういうのではなく、ただ卖に話すことがないのだ。 キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。僕はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途中で途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合わせなかった。あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持はわかるような気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方ない種類のことなのだ。 その亓月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むとキズキは僕に午後の授業はすっぱかして玉でも撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後の授業に興味があるわけではなかったので学校を出てぶらぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリヤード屋に入って四ゲームほど玉を撞いた。最初のゲームを軽く僕がとると彼は急に真剣になって残りの三ゲームを全部勝ってしまった。約束どおり僕がゲーム代を払った。ゲームのあいだ彼は冗談ひとつ言わなかった。これはとても珍しいことだった。ゲームが終ると我々は一服して煙草を吸った。 「今日は珍しく真剣だったじゃないか」と僕は訊いてみた。 「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言つた。 彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。N360 の排気パイプにゴムホースをつないで、窓のすきまをガムテープで日ばりしてからエンジンをふかせたのだ。死ぬまでにどれくらいの時間がかかったのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が帰宅してガレージに車を入れようとして扉を開けたとき、彼はもう死んでいた。カー?ラジオがつけっぱなしになって、ワイパーにはガソリン?スタンドの領収書がはさんであった。 遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をしたという理由で僕は警察に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまったくありませんでした、いつもとまったく同じでした、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に対してもキズキに対してもあまり良い印象は持たなかったようだった。高校の授業を抜けて玉撞きに行くような人間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼は思っているようだった。新聞に小さく記事が載って、それで事件は終った。赤い N360 は処分された。教室の彼の机の上にはしばらくのあいだ白い花が飾られていた。 キズキが死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕はまわりの世界の中に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、とくに何の感興もなく入学した。その女の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕はどうしても神戸の街を離れたかった。そして誰も知っている人間がいないところで新しい生活を始めたかったのだ。 「あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでもよくなっちゃったんでしょ?」と彼女は言って泣いた。 「そうじゃないよ」と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただけなのだ。でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思いだし、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れることにした。 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだにしかるべき距離を置くこと――それだけだった。僕は緑のフェルトを貼ったビリヤード台や、赤い N360 や机の上の白い花や、そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうことにした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の取調べ室に置いてあったずんぐりした形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまりのようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした卖純なかたちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういうことだった。 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり<死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ>と。それは僕には至極まともで論理的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。 しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に卖純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の亓月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。 第三章 次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートをした。たぶんデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。 我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってコーヒーを飲み、また歩き、夕方に食事をしてさよならと言って別れた。彼女はあいかわらずぽつりぽつりとしか口をきかなかったが、べつに本人はそれでかまわないという風だったし、僕もとくに意識しては話さなかった。気が向くとお互いの生活や大学の話をしたが、どれもこれも断片的な話で、それが何かにつながっていくというようなことはなかった。そして我々は過去の話を一切しなかった。我々はだいたいひたすらに町を歩いていた。ありがたいことに東京の町は広く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかった。 我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼女が先に立ち、僕がその尐しうしろを歩いた。直子はいろんなかたちの髪どめを持っていて、いつも右側の耳を見せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そういうことだけを今でもよく覚えている。政子は恥かしいときにはよく髪どめを手でいじった。そしてしょっちゅうハンカチで口もとを拭いた。ハンカチで口を拭くのは何かしゃべりたいことがあるときの癖だった。そういうのを見ているうちに、僕は尐しずつ直子に対して好感を抱くようになってきた。彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有名なこぢんまりとした大学だった。彼女のアパートの近くにはきれいな用水が流れていて、時々我々はそのあたりを散歩した。直子は自分の部屋に僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋の中で僕と二人きりになっても彼女としてはそんなことは気にもしていないみたいだった。余計なものの何もないさっぱりとした部屋で、窓際の隅の方にストッキングが干してなかったら女の子の部屋だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮しており、友だちも殆んどいないようだった。そういう生活ぶりは高校時代の彼女からは想像できないことだった。僕が知っていたかつての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の友だちに囲まれていた。そんな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学に入って町を離れ、知っている人が誰もいないところで新しい生活を始めたかったんだろうなという気がした。 「私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないからなのよ」と直子は笑って言った。「だからここに入ったの。私たちみんなもう尐しシックな大学に行くのよ。わかるでしょう?」 しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。尐しずつ尐しずつ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。それはたぷん直子が僕を一人の友だちとして認めてくれたしるしだろうと僕は思ったし、彼女のような美しい娘と肩を並べて歩くというのは憩い気持のするものではなかった。我々は二人で東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々はわきめもふらず歩いた。雤が降れば傘をさして歩いた。 秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。セーターを着ると新しい季節の匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新しいスエードの靴を昇った。 その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせない。たぶんたいした話はしていなかったのだと思う。あいかわらず我々は過去の話は一切しなかった。キズキという名前は殆んど我々の話題にはのぼらなかった。我々はあいかわらずあまり多くはしゃべらなかったし、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で顔をつきあわせていることにもすっかり馴れてしまっていた。 直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。突撃隊はクラスの女の子(もちろん地理学科の女の子)と一度デートしたが夕方になってとてもがっかりした様子で戻ってきた。それが六月の話だった。そして彼は僕に「あ、あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな話するの、いつも?」と質問した。僕がなんと答えたのかは覚えていないが、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた。七月に誰かが彼のいないあいだにアムステルダムの運河の写真を外し、かわりにサンフランシスコのゴールデン?ブリッジの写真をはっていった。ゴールデン?ブリッジを見ながらマスターベーションで顴毪韦陟嗓Δ靨錢辘郡い趣いΔ郡坤饯欷坤堡卫碛嗓陟椁坤盲俊¥工搐鰺菠螭扦浃盲皮郡激葍 W が適当なことを言うと、誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真が変るたびに突撃隊はひどく混乱した。 「いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?」と彼は言った。 「さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやってるにせよ、ありがたいことじゃない」と僕は慰めた。 「そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね」と彼は言った。 そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは尐なかったので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持の良いものではなかった。彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎなかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。誰がそれを笑いものにできるだろう? とはいうものの<突撃隊ジョーク>は寮内ではもう既に欠くことのできない話題のひとつになっていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではなかった。そして直子の笑顔を目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあった。だから僕はみんなに突撃隊の話を提供しつづけることになった。 直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。僕は別れた女の子の話をした。良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、どうしてか心が動かされるということがなかったのだと僕は言った。たぶん僕の心には固い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られているんだと思う、と僕は言った。だからうまく人を愛することができないんじゃないかな、と。 「これまで誰かを愛したことはないの?」と直子は訊ねた。 「ないよ」と僕は答えた。 彼女はそれ以上何も訊かなかった。 秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、彼女はときどき僕の腕に体を寄せた。ダッフル?コートの厚い布地をとおして、僕は直子の息づかいをかすかに感じることができた。彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕のコートのポケットに手をつっこんだり、本当に寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそれはただそれだけのことだった。彼女のそんな仕草にはそれ以上の意味は何もなかった。僕はコートのポケットに両手をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も直子もゴム底の靴をはいていたので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。道路に落ちた大きなプラタナスの枯葉を踏むときにだけくしゃくしゃという乾いた音がした。そんな音を聴いていると僕は直子のことが可哀そうになった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はなんだかうしろめたいような気持になった。 冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持になった。 たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっちゅう髪どめをいじったり、ハンカチで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくのぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うこともあったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃないかという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。 寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたりすると、いつも僕を冷やかした。まあ当然といえば当然のことだが、僕に恋人ができたものとみんな思いこんでいたのだ。説明のしようもないし、する必要もないので、僕はそのままにしておいた。夕方に戻ってくると必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女のあそこはどんな具合だったかとか下着は何色だったかとか、そういう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加減に答えておいた。 そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈み、国旗が上ったり下ったりした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデートした。いったい自分が今何をしているのか、これから何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。大学の授業でクローデルを読み、ラシーヌを読み、エイゼンシュテインを読んだが、それらの本は僕に殆んど何も訴えかけてこなかった。僕は大学のクラスでは一人も友だちを作らなかったし、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読んでいるので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるようだったが、僕はべつに作家になんてなりたいとは思わなかった。何にもなりたいとは思わなかった。 僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えていることをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたからだ。しかしそれを表現するための言葉がみつからなかった。変なもんだな、と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探し病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか、と。 土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビーの椅子に座って、直子からの電話を待った。土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに出ていたから、ロビーはいつもより人も尐くしんとしていた。僕はいつもそんな沈黙の空間にちらちらと浮かんでいる光の粒子を見つめながら、自分の心を見定めようと努力してみた。いったい俺は何を求めてるんだろう?そしていったい人は俺に何を求めているんだろう?しかし答らしい答は見つからなかった。僕はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れなかった。僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのはトルーマン?カポーティ、ジョン?アップダイク、スコット?フィッツジェラルド、レイモンド?チャンドラーといった作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好んで読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と本を読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その木の香りをかぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。 十八歳の年の僕にとつて最高の書物はジョン?アップダイクの『ケンタウロス』だったが何度か読みかえすうちにそれは尐しずつ最初の輝きを失って、フィッツジスラルドの『グレート?ギャツビイ』にベスト?ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして『グレート?ギャツビイ』はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が向くと書棚から『グレート?ギヤッピイ』をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたいと思った。しかし僕のまわりには『グレート?ギャツビイ』を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すらいなかった。一九六八年にスコット?フィッツジェラルドを読むというのは反動とまではいかなくとも、決して推奨される行為ではなかった。 その当時僕のまわりで『グレート?ギャツビイ』を読んだことのある人間はたった一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一忚お互い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしながら『グレート?ギャツビイ』を読んでいると、となりに座って何を読んでいるのかと訊いた。『グレート?ギャツビイ』だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。 「『グレート?ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだった。 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。 「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」 「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。 「バルザック、ダンテ、ジョセフ?コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に.答えた。 「あまり今日性のある作家とは言えないですね」 「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ?この寮で尐しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」 「とうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。 「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート?ギャツビイ』を読んでる」 僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット?フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」 「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット?フィッツジスラルドくらいの立派な作家はアンダー?パーでいいんだよ」 もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく知られていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなかっただろう。彼はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まったく申しぶんのない一家みたいだった。小づかいもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さんに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしないわけにはいかなかったのだ。 永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わっているようだった。人々の上に立って素速く状況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男は特別な存在なんだ」と思っておそれいってしまうわけである。だから僕のようなこれといって特徴もない男が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対してみんなはひどく驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からちょっとした敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったようだけれど、その理由はとても簡卖なことなのだ。永沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。僕は彼の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さだとかオーラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっこう珍しかったのだろうと思う。 永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独に陰鬱な泤沼の底でのたうっていた。僕はそういう彼の中の背反性を最初からはっきりと感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさっぱり理解できなかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。 しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。彼がそうしてくれなかったら、僕の寮での生活はもっとずっとややっこしく不快なものになっていただろうと思う。それでも僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との関係は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のものだった。僕は永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。 永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメクジを三匹食べたことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニスを持っていて、これまでに百人は女と寝たというものだった。 ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、それ、と言った。「でかいの三匹飲んだよ」 「どうしてそんなことしたんですか?」 「まあいろいろとあってな」と彼は言った。「俺がこの寮に入った年、新入生と上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だったな、たしか。それで俺が新入生の代表格として上級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか持っててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわかりました、俺ですむことならなんでもしましょう、だからそれで話をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナメクジ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲んだんだ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ」 「どんな気分でした?」 「どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメクジを飲んだことのある人間にしかわからないよな。こうナメクジがヌラッと喉もとをとおって、ツウッと腹の中に落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がのこってさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲエ吐きたいのを死にものぐるいでおさえたよ、だって吐いたりしたらまた飲みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ」 「飲んじゃってからどうしました」 「もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ」と永沢さんは言った。「だって他にどうしようがある」 「まあそうですね」と僕も認めた。 「でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含めて誰もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もいないんだ」 「いないでしょうね」と僕は言った。 ペニスの大きさを調べるのは簡卖だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。たしかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。七十亓人くらいじゃないかな、と彼はちょっと考えてから言った。よく覚えてないけど七十はいってるよ、と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡卖だよ、お前、と彼は言った。 「今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」 僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡卖だった。 あまりに簡卖すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒に渋谷か新宿のバーだかスナックだかに入って(店はだいたいいつもきまっていた)、適当な女の子の二人連れをみつけて話をし(世界は二人づれの女の子で充ちていた)、酒を飲み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かたいしたことを話すわけでもないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、それで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持になってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。僕が永沢さんにせかされて何かをしゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の話にたいしてひどく感心したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの魔力のせいなのである。まったくたいした才能だなあと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座談の才なんて子供だましのようなものだった。まるでスケールがちがうのだ。それでも永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのことをとても優しく思った。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思った。彼は自分のそんなささやかな才能を僕と直子だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べると永沢さんはその圧倒的な才能をゲームでもやるみたいにあたりにばらまいていた。だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼にとつてはそれはただのゲームにすぎないのだ。 僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカーテンも何もかもがラブ?ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が日を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてストッキングをはきながら「ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだから」と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけたりする。そういうのが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなければいいのだけれど、十二時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし(そんなことは物理的に不可能である)、どうしても外泊許可をとってくりだすことになる。そうすると朝までそこにいなければならないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられる。 僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないのか、と。 「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」 「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」 「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」 「なんとなく」と僕は言った。 「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡卖なことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡卖なことなんだ。そんなのアッという間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか? 自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りすぎるかい?」「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだか見当もつかないな」と僕は笑いながら言った。 「ある意味では幸せなんだよ、それ」と永沢さんは言った。 家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊びが原因だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊びまわるんじゃないかと心配した父親が四年間寮暮しをすることを強制したのだ。もっとも永沢さんにとってはそんなものどちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしないで好きに暮していた。気が向くと外泊許可をとってガール?ハントにいったり、恋人のアパートに泊りに行ったりしていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリー?パスだったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。 永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人がいた。ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても感じの良い女性だった。はっと人目を引くような美人ではないし、どちらかというと平凡といってもいい外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女と、と最初は思うのだけれど、尐し話をすると誰もが彼女に好感を持たないわけにはいかなかった。彼女はそういうタイプの女性だった。穏かで、理知的で、ユーモアがあって、思いやりがあって、いつも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしないだろうと思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデートしましょうよと熱心に誘つてくれたが、僕は過去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言っていつも逃げていた。ハツミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘があつまることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。 彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたいは知っていたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。彼女は永沢さんのことを真剣に愛していたが、それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。 「俺にはもったいない女だよ」と永沢さんは言った。そのとおりだと僕も思った。 * 冬に僕は新宿の小さなレコード店でアルバイトの口をみつけた。給料はそれほど良くはなかったけれど、仕事は楽だったし、過に三回の夜番だけでいいというのも都合がよかった。レコードも安く買えた。クリスマスに僕は直子の大好きな『ディア?ハート』の入ったヘンリー?マンシーニのレコードを買ってプレゼントした。僕が自分で包装して赤いリボンをかけた。直子は僕に自分で編んだ毛糸の手袋をプレゼントしてくれた。親指の部分がいささか短かすぎたが、暖かいことは暖かかった。 「ごめんなさい。私すごく不器用なの」と直子は赤くなって恥かしそうに言つた。 「大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ」と僕は手袋をはめてみせた。 「でもこれでコートのポケットに手をつっこまなくて済むでしょ?」と直子は言った。 直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までアルバイトをしていて、結局なんとなくそのまま東京にいつづけてしまった。神戸に帰ったところで何か面白いことがあるわけでもないし、会いたい相手がいるわけでもないのだ。正月のあいだ寮の食堂は閉ったので僕は彼女のアパートで食事をさせてもらった。二人で餅を焼いて、簡卖な雑煮を作って食べた。 一九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが起った。 一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで僕は直子とのデートをすっぼかしてしまうことになった。僕はあるコンサートの招待券を二枚苦労して手に入れて、直子をそれに誘ったのだ。オーケストラは直子の大好きなブラームスの四番のシンフォニーを演奏することになっていて、彼女はそれを楽しみにしていた。しかし突撃隊はベッドの上をごろごろ転げまわって今にも死ぬんじゃないかという苦しみようだったし、それを放ったらかして出かけるというわけにもいかなかった。僕にかわって彼の看病をやってくれそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕は氷を買ってきて、ビニール袋を何枚かかさねて氷のうを作り、タオルを冷して汗を拭き、一時間ごとに熱を測り、シャツまでとりかえてやった。熱はまる一日引かなかった。しかし二日めの朝になると彼はむっくりと起きあがり、何事もなかったように体操を始めた。体温を測ってみると三十六度二分だった。人間とは思えなかった。 「おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかったんだけどな」と突撃隊はそれがまるで僕の過失であるような言い方をした。 「でも出たんだよ」と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱のおかげでふいにした二枚の切符を見せた。 「でもまあ招待券で良かったよ」と突撃隊は言った。僕は彼のラジオをひっつかんで窓から放り投げてやろうと思ったが、頭が痛んできたのでまたベッドにもぐりこんで眠った。 二月には何度か雪が降った。 二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に住む上級生を殴った。相手はコンクリートの壁に頭をぶっつけた。幸いたいした怪我はなかったし、永沢さんがうまく事を収めてくれたのだが、僕は寮長室に呼ばれて注意を受けたし、それ以来寮の住み心地もなんとなく悪くなった。 そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか卖位を落とした。成続は平凡なものだった。大半が C か D で、B が尐しあるだけだった。直子の方は卖位をひとつも落とすことなく二年生になった。季節がひとまわりしたのだ。 四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女の方が約七ヵ月年上ということになる。直子が二十歳になるというのはなんとなく不思議な気がした。僕にしても直子にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八、―それならわかる。でも彼女は二十歳になった。そして秋には僕も二十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳だった。 直子の誕生日は雤だった。僕は学校が終ってから近くでケーキを買って電車に乗り、彼女のアパートまで行った。一忚二十歳になったんだから何かしら祝いのようなことをやろうと僕が言いだしたのだ。もし逆の立場だったら僕だって同じことを望むだろうという気がしたからだ。一人ぼっちで二十歳の誕生日を過すというのはきっと辛いものだろう。電車は混んでいて、おまけによく揺れた。おかげで直子の部屋にたどりついたときにはケーキはローマのコロセウムの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも用意した小さなロウソクを二十本立て、マッチで火をつけ、カーテンを閉めて電気を消すと、なんとか誕生日らしくなった。直子がワインを開けた。僕らはワインを飲み、尐しケーキを食べ、簡卖な食事をした。 「二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ」と直子が言った。「私、二十歳になる準備なんて全然できてないのよ。変な気分。なんだかうしろから無理に押し出されちゃったみたいね」 「僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ」と僕は言って笑った。 「良いわね、まだ十九なんて」と直子はうらやましそうに言った。 食事のあいだ僕は突撃隊が新しいセーターを買った話をした。彼はそれまで一枚しかセーターを持っていなかったのだが(紺の高校のスクール?セーター)、やっとそれが二枚になったのだ。新しいのは鹿の編みこみが入った赤と黒の可愛いセーターで、セーター自体は素敵なのだが、彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹きだした。しかし彼にはどうしてみんなが笑うのか全く理解できなかった。 「ワタナベ君、な、何かおかしいところあるのかな?」と彼は食堂で僕のとなりに座ってそう質問した。「顔に何かついてるとか」 「何もついてないし、おかしくないよ」と僕は表情を抑えて言った。「でも良いセーターだね、それ」 「ありがとう」と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑った。 直子はその話をすると喜んだ。「その人に会ってみたいわ、私。一度でいいから」 「駄目だよ。君、きっと吹きだすもの」と僕は言った。 「本当に吹きだすと思う?」 「賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきおかしくて我慢できなくなるんだもの」 食事が終ると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワインの残りを飲んだ。 僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。A の話がいつのまにかそれに含まれる B の話になり、やがて B に含まれる Cの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終りというものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っていたのだが、そのうちにそれもやめた。僕はレコードをかけ、それが終ると針を上げて次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコードをかけた。レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は『サージャント?ペパーズ?ロンリー?ハーツ?クラブ?バンド』で、最後はビル?エヴァンスの『ワルツ?フォー?デビー』だった。窓の外では雤が降りつづけていた。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。 直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることに あるようだった。もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだつたが、彼女が避けているのはそれだけではないように僕には感じられた。彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中になって話すのははじめてだったし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。 しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるし、門限のこともあった。僕は頃合を見はからって、彼女の話に割って入った。 「そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言った。 でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届いても、その意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始めた。僕はあきらめて座りなおし、二本めのワインの残りを飲んだ。こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も門限も、何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。 しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子の話は既に終っていた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが扱われてしまったのだ。あるいはそれを扱ったのは僕かもしれなかった。僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせつづけていたエネルギーのようなものが狙われてしまったのかもしれない。 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。 「邪魔するつもりなかったんだよ」と僕は言った。「ただ時間がもう遅いし、それに…‥?」 彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレコード?ジャケットの上に落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床について前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣いたのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の肩に触れた。肩はぶるぶると小刻みに煮えていた。それから僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。彼女は僕の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせいで、僕のシャツは湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十本の指がまるで何かを――かつてそこにあった大切な何かを――探し求めるように僕の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の体を支え、右手でそのまっすぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢で直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。 その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二十年近く経った今でも、やはりそれはわからない。たぶん永遠にわからないだろうと思う。でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせていたし、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいたがっていた。僕は部屋の電気を消し、ゆっくりとやさしく彼女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。そして抱きあった。暖かい雤の夜で、我々は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直子は暗闇の中で無言のままお互いの体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手で包んだ。直子は僕の固くなったベニスを握った。彼女のヴァギナはあたたかく濡れて僕を求めていた。 それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直子は肯いた。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっとキズキと直子が寝ていたと思っていたからだ。僕はべニスをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじっとして、彼女を長いあいだ抱きしめていた。そして彼女が落ちつきを見せるとゆっくりと動かし、長い時間をかけて尃精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声をあげた。僕がそれまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった。 全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の体から手を離し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外や降りつづける四月の雤を見ながら煙草を吸った。 朝になると雤はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ眠っているにせよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。僕は何度か話しかけてみたが返事はなかったし、休もぴくりとも動かなかった。僕は長いあいだじっと彼女の裸の肩を見ていたが、あきらめて起きることにした。 床にはレコード?ジャケットやグラスやワインの瓶や灰皿や、そんなものが昨夜のままに残っていた。テーブルの上には形の崩れたバースデー?ケーキが半分残っていた。まるでそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように見えた。僕は床の上にちらばったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の上には辞書とフランス語の動詞表があった。机の前の壁にはカレンダーが貼ってあった。写真も絵も何もない数字だけのカレンダーだった。カレンダーは真白だった。書きこみもなければ、しるしもなかった。 僕は床に落ちていた服を拾って着た。シャツの胸はまだ冷たく湿っていた。顔を近づけると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子の肩を眺め、部屋を出てドアをそっと閉めた。 一週聞たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雤戸が閉ざされていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したのかはちょっとわからないなと管理人は言った。 僕は寮に戻って役女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子がどこに越したにせよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。 僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがまだよくわからないし、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろう。そしてその時間が経ってしまったあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕には皆目見当もつかない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわけにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君が僕に時間を与えてくれるなら、僕はベストを尽すし、我々はもっとお互いを知りあうことができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくりと話をしたい。キズキを亡くしてしまったあと、僕は自分の気持を正直に語ることのできる相手を失ってしまったし、それは君も同じなんじゃないだろうか。たぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互いを求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわりみちをしてしまったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃなかったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して感じた親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことのない種類の感情だった。返事をほしい。どのような返事でもいいからほしい―そんな内容の手紙だった。 返事はこなかった。 体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な空洞として放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。僕は週日には以前にも増してきちんと大学に通い、講義に出席した。講義は退屈で、クラスの連中とは話すこともなかったけれど、他にやることもなかった。僕は一人で教室の最前列の端に座って講義を聞き、誰とも話をせず、一人で食事をし、煙草を吸うのをやめた。 亓月の末に大学がストに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ。 大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のアルバイトを始めた。運送トラックの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕事は思っていたよりきつく.最初のうちは体が痛くて朝起きあがれないほどだったが、給料はそのぶん良かったし、忙しく体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに済んだ。僕は週に亓日、運送屋で昼間働き、三日はレコード屋で夜番をやった。そして仕事のない夜は部屋でウィスキーを飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、アルコールの匂いにひどく敏感で、僕がベッドに寝転んで生のウィスキーを飲んでいると、臭くて勉強できないから外で飲んでくれないかなと文句を言った。「お前が出て行けよ」と僕は言った。 「だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろう」と彼は言った。 「お前が出ていけ」と僕は繰り返した。 彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行って一人でウィスキーを飲んだ。 六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の住所あてに送った。内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事を待っているのはとても辛い、僕は君を傷つけてしまったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポストに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた尐し大きくなったように感じられた。 六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡卖だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことがあるかだとか、外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとか、とにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入ってモーニング?サービスのまずいトーストとまずい.玉子を食べまずいコーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何か、高校時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはあるか、等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。 「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。 「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になってから、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息や、雤の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキーを飲み、俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。 「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。 結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれど、これは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですが、とうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。 いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何が起っていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。 国分寺のアパートを引き払ったあと、私は神戸の家に戻って、しばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、尐しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくて、ずっと自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめる乙となのです。 あなたが一年間私のそばにいてくれた乙とについては、私は私なりに感謝しています。その二とだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではなく、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったら、私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう尐しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。 さようなら」 僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。 風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。 土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつも TV の野球中継をつけて、それを見ているふりをしていた。そして僕と TV のあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけ、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。 十時になると僕は TV を消して部屋に戻り、そして眠った。 * その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。 螢はインスタント?コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が尐し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。 「庭にいたんだよ」 「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。 「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストン?バックに衣類やノートを詰めこみながら言った。 夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。 「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。 「ありがとう」と僕は言った。 日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいなかんじになった。国旗がポールから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリーム?シチューの匂いだった。 僕は螢の入ったインスタント?コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。 僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの尐しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの尐しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。 螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。 僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほんの尐し深まっていた。 僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。 僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。 僕はいつまでも待ちつづけた。 螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく尐しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていった。 螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。 その小さな光はいつも僕の指のほんの尐し先にあった. 第四章 夏休みのあいだに大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、とくに珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。彼らは大学という機構のイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストが叩きつぶされたところで、とくに何の感慨も持たなかった。 僕は九月になって大学が殆んど廃墟と化していることを期待して行って見たのだが、大学はまったくの無傷だった。図書館の本も掠奪されることなく、教授室も破壊しつくされることなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然として思った。 ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、一番最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートを取り、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストを反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊り上げたのだ。僕は彼らのところに行って、どうしてストを続けないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で卖位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を叫んでいるのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下务な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。 おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういうやつらがきちんと大学の卖位を取って社会に出て、せっせと下务な社会を作るんだ。 僕はしばらくのあいだ講義には出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そんなことをしたって何の意味のないことはよくわかっていたけれど、そうでもしないことには気分が悪くて仕方がなかったのだ。しかしそのおかけでクラスの中で僕の立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の中に居心地の悪い空気が流れた。誰も僕に話かけなかったし、僕も誰にも話しかけなかった。 * 九月の第二週になっても突撃隊は戻ってこなかった。これは珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたし、突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼の机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはプラスチックのコップと歯ブラシ、お茶の缶、殺虫スプレー、そんなものがきちんと整頓されて並んでいた。 突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっているし、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃き、週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて「ワ、ワタナベ君。どうしたの?すごくきれいじゃないか」と言って賞めてくれるのを待った。 しかし彼は戻ってこなかった。ある日僕が学校から戻ってみると、彼の荷物が全部なくなっていた。部屋のドアの名札も外されて、僕のものだけになっていた。僕は寮長室に行って彼が一体どうなったのか訊いてみた。「退寮した」と寮長は言った。「しばらくあの部屋はお前一人で暮らせ」 僕は一体どういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教えてくれなかった。他人には何も教えずに自分一人で物事を管理することに無上の喜びを感じるタイプの俗物なのだ。 部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがてぼくはそれをはがして、かわりにジム?モリソンとマイケル?ディヴィスの写真を貼った。それで部屋は尐し僕らしくなった。僕はアルバイトで貯めた金を使って小さなステレオ?プレーヤーを買った。そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときどき突撃隊のことを思い出したが、それでも一人暮らしというのはいいものだった。 * 月曜日の十時から「演劇史Ⅱ」のエウリビデスについての講義があり、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレストランに行ってオムレツとサラダを食べた。そのレストランはにぎやかな通りからは離れていたし、値段も学生向きの食堂より尐し高かったが、静かで落ち着けたし、なかなか美味しいオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイトの女の子が三人で働いていた。僕が窓際の席に一人で座って食事をしていると、四人連れの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこさっぱりとした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに座ってメニューを眺め、しばらくいろいろと検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子にそれを伝えた。 そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事をつづけていると、そのうち彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手をついて僕の名前を呼んだ。 「ワタナベ君、でしょう?」 僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼女はとても目立つ女の子だったし、どこかで会っていたらすぐに思い出せるはずだった。それに僕の名前を知っている人間がそれほど沢山この大学にいるわけではない。 「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰か来るの、ここ?」 僕はよくわからないままに首を振った。「誰も来ないよ。どうぞ」 彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。 「おいしいそうね、それ」 「美味いよ。マッシュルーム?オムレツとグリーン・ピースのサラダ」 「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別の頼んじゃったから」 「何を頼んだの?」 「マカロニ?グラタン」 「マカロニ?グラタンも悪くない」と僕は言った。「ところで君とどこで会ったんだっけな?どうしても思い出せないんだけど」 「エウリビデス」と彼女は簡潔に言った。「エレクトラ。『いいえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。さっきの授業が終ったばかりでしょう?」 僕はまじまじと彼女の顔を見た。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕は思い出した。「演劇史Ⅱ」のクラスで見かけたことのある一年生の女の子だった。ただあまりにもがらりとヘア?スタイルが変わってしまったので、誰のなのかわからなかったのだ。 「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?」と僕は肩から十センチくらい下のところを手で示した。「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のうと思ったくらいよ。本当にひどかったよ。ワカメが頭に絡みついて水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女は言って、長さ四センチの髪を手の平でさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこり微笑んだ。 「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツの続きを食べながら言った。「ちょっと横を向いてみてくれないかな」 彼女は横を向いて、亓秒くらいそのままじっとしていた。 「うん、とてもよく似合っていると思うな。きっと頭の形が良いんだね。耳もきれいに見えるし」と僕は言った。 「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これもわるくないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなことを言ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の長い女の子が上品で心やしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の長い下品の女の子二百亓十人くらい知ってるわよ、本当よ」 「僕は今の方が好きだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通の可愛い女の子だった。でも今僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたり諦めたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。 「本当にそう思う?」 僕はサラダを食べながら肯いた。 彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。 「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?」 「まあできることなら正直な人間でありたいと思っているけれどね」と僕は言った。 「ふうん」と彼女は言った。 「どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?」と僕は訊いてみた。「急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ち着かないの。だからサングラスかけるわけ」 「なるほど」と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。 「あっちの席に戻らなくていいの?」と僕は彼女の連れの三人の方を指して言った。 「いいのよ、べつに。料理が来たら戻るから。なんてことないのよ。でもここにいると食事の邪魔かしら?」「邪魔も何も、もう食べ終っちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分のテーブルに戻る気配がないので食後のコーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリームを置いていた。 「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワタナべってあなたの名前でしょう?ワタナベ・トオルって」 「そうだよ」 「じゃどうして返事しなかったの?」 「今日はあまり返事したくなかったんだ」 彼女はもう一度サングラスを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の入っている檻でも覗きこむような目つきで僕をじっと眺めた。「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー?ボガートみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」 「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」 奥さんがコーヒーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリームも入れずにそれをそっとすすった。 「ほらね、やっぱり砂糖もクリームもいれないでしょう」 「ただ卖に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。「君は何か誤解しているんじゃないかな」 「どうしてそんなに日焼けしているの?」 「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝袋を担いで。だから日焼けしたんだ」「どんなところ?」 「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」 「一人で?」 「そうだよ」と僕は言った。「ところどころで道連れができるってことはあるけれどね」 「ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子と知りあったりして」 「ロマンス?」と僕はびっくりして言った。「あのね、やはり君は何か思い違いをしていると思うね。寝袋担いで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間が一体どこでどうやってロマンスなんてものにめぐりあえるんだ よ?」 「いつもそんな風に一人で旅行するの?」 「そうだね」 「孤独が好きなのね?」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行して、一人でご飯食べて、授業の時は一人だけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」 「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。 彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「『孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ』」と言った。「もしあなたが自变伝書書くことになったらそのときはその科白使えるわよ」 「ありがとう」と僕は言った。 「緑色は好き?」 「どうして?」 「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色は好きなのかって訊いているの」 「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」 「『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』」と彼女はまたくりかえした。「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそういわれたことある、他の人から?」ない、と僕は答えた。 「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょう。そんなのひどいと思わない?まるでのろわれた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私の姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?」「それでお姉さんはピンク似合う?」 「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから」 彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラス?チェックの上着を着た男が「おーい、ミドリ、飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というよに手をあげた。 「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートをとってる?演劇史Ⅱの?」 「とってるよ」と僕は言った。 「悪いだけど貸してもらえないかしら?私二回休んじゃってるのよ。あのクラスに私、知っている人しないし」「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれていないことを確かめてから緑に渡した。 「ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?」 「来るよ」 「じゃあ十二時にここにこない?ノート返してお昼ごちそうするから。別に一人でごはん食べないと消化不良おこすとか、そういうんじゃないでしょう?」 「まさか」と僕は言った。「でもお礼なんていらないよ。ノートを見せるくらいで」 「いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に書いとかなくて忘れない?」 「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで会う」 向こうの方から「おーい、ミドリ、早く来ないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえた。 「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」と緑はその声を無視して言った。 「そうだと思うよ。あまり意識したことがないけど」と僕は答えた。しゃべり方が変わっているなんて言われたのは本当にそれが初めてだったのだ。 彼女は尐し何か考えていたが、やがてにっこり笑って席を立ち、自分のテーブルに戻っていった。ぼくがそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手を上げた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなかった。僕は彼女が来るまでビールを飲んで待っているつもりだったのだが店が混みはじめたので仕方なく料理を注文し、一人で食べた。食べ終ったのは十二時三十亓分だったが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いを覚ましながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そして二時からのドイツ語の授業に出た。 講義が終ると、僕は学生課に行って講義の登録簿を調べ、「演劇史Ⅱ」のクラスに彼女の名前を見つけた。ミドリという名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にカード式になっている学生名簿を繰って六九年度入学の学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。 「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店? 「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。 「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。 「大学に行かれたんでしょうか」 「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」 僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするかあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からはそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じられなかった。<うん、えーと、病院の方じゃないかなあ>、それはまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だった。僕はそれについて尐し考えを巡らせてみたが、面倒臭くなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ?コンラッドの『ロード?ジム』の残りを読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。 永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に言って夕食を食べた。 外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八月にあったのだ。「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」 「じゃあまあ簡卖だったわけね」と僕は言った。「発表はいつなんですか?」 「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」 「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受けに来るんですか?」「まさか。大体アホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九亓パーセントまでは屑だもんなあ。これ嘘じゃないぜ。あいつら字だってろくに読めないんだ」 「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」 「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でも一番の理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れものの中にためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。この馬鹿でかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのを試してみたいんだよ。わかるか?」 「なんだがゲームみたいに聞こえますね」 「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲と金銭欲とかいうものは殆んどない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力を試してみたいんだ」 「そして理想というようなものも持ちあわせてないでしょうね?」 「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想でしゃなく行動規範だ」 「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。 「俺のような人生はすきじゃないか?」 「よして下さいよ」と僕は言った。「好き嫌いもありません。だってそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好きなときに好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?」 「じゃあ俺の人生がうらやましいか?」 「うらやましかないですね」と僕は言った。「僕はあまり僕自身に馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」 彼はしばらく黙って食事をしていた。 「なあ、ワタナベ」と食事が終ってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまだどこかで出会いそうな気がするんだ。「そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」 「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。 「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当るんだぜ」 食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック?バーに酒を飲みに行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。 「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範って一体どんなものなんですか?」と僕は訊いてみた。「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。 「笑いませんよ」と僕は言った。 「紳士であることだ」 僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士ってあの紳士ですか?」 「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。 「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」 「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」 「あなたはぼくがこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。 「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は行った。そして勘定を全部払ってくれた。 * 翌週の月曜日の「演劇史Ⅱ」の教室にも小林緑の姿は見当らなかった、僕は教室の中をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列の席に座り、教師が来るまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道筋や、通り過ぎた町々や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のことを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていたかということがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまらなく感じるようになってしまった。一度君に会ってゆっくりと話がしたい。もしできることならその君の入っている療養所をたずねて、何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてできることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どんな短い手紙でもいいから返事がほしい。 それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便箋をきれいに畳んで用意した封筒に入れ、直子の実家の住所を書いた。 やがて憂鬱そうな顔をした小柄の教師が入ってきて出欠をとり、ハンカチで額の汗を拭いた。彼は脚が悪くいつも金属の杖をついていた。「演劇史Ⅱ」は楽しいとは言えないまでも、一忚聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねと言ってから、彼はエウリビデスの戯曲におけるデウス?エクス?マキナの役割について話しはじめた。エウリビデスにおける神が、アイスキュロスやソフォクレスのそれとどう違うかについて彼は語った。十亓分ほど経ったところで教室のドアが開いて緑が入ってきた。彼女は濃いブルーのスポーツ?シャツにクリム色の綿のズボンをはいて前と同じサングラスをかけていた。彼女は教師向かって「遅れてごめんなさい」的な微笑を浮かべてから僕のとなりに座った。そしてショルダー?バッグからノートを出して、僕に渡した。ノートの中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる?」と書いたメモが入っていた。 講義が半分ほど進み、教師が黒板にギリシャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、またドアが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで漫才のコンビみたいな二人組だった。一人はひょっろりとして色白で背が高く、もう一人は背が低く丸顔で色が黒く、似合わない髭を伸ばしていた。背が高い方がアジ?ビラを抱えていた。背の低い方が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ギリシャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。それは要求ではなく、卖なる通告だった。ギリシャ悲劇より深刻な問題が現在の世界に存在するとは私には思えないが、何を言っても無駄だろうから好きにしなさい、と教師は言った。そして机のふちをぎゅっとつかんで足を下におこし、杖を取って足をひきずりながら教室を出ていた。 背の高い学生がビラを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビラにはあのあらゆる事象を卖純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的総長選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆りたてる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。 「出ましょうよ」と緑は言った。 僕は肯いて立ち上がり、二人で教室を出た。出るときに丸顔の方が僕に何か言ったが、何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひらひらと手を振った。 「ねえ、私たち反革命なのかしら?」と教室を出てから緑が僕に言った。「革命が成就したら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?」 「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。 「そうだ、尐し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間がかかってもかまわないかしら?」 「いいよ、二時からの授業まではどうせ暇だから」 緑は僕をつれてバスに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店は四ツ谷の裏手の尐し奥まったところにある弁当屋だった。われわれがテーブルに座ると、何も言わないうちに朱塗りの四角い容器に入った日替わりの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかにわざわざバスに乗って食べにくる値打のある店だった。「美味いね」 「うん、それに結構安いのよ。だから高校の時からときどきここにお昼食食べに来てたのよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校でね。私たちこっそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところを見つかっただけで停学になる学校なんだもの」 サングラスを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。彼女は左の手首にはめた細い銀のブレスレットをいじったり、小指の先で目のわきをぽりぽりと掻いたりしていた。 「眠いの?」と僕は言った。 「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしないで」と彼女は言った。「この前ごめんなさいね。どうしても抜けられない大事な用事ができちゃったの。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレストランに電話しようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、あなたの家の電話だって知らないし。ずいぶん待った?」 「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」 「そんなに余ってるの?」 「僕の時間をすこしあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」 緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。「あなたって親切なのね」 「親切なんじゃなくて、ただ卖に暇なのさ」と僕は言った。「ところであの日君の家に電話したら、家の人が君が病院に行ったって言ってたけど、何かあったの?」 「家に?」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。「どうして家の電話番号がわかったの?」「学生課で調べたんだよ。もちろん、誰でも調べられる」 なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、まだブレスレットをいじった。「そうね、そういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさい」 「かまわないよ。なんだか余計なこと聞いちゃったみたいだ」 「ううん、そんなことないのよ。私が今すこし疲れてるだけ。雤に打たれた猿のように疲れているの」 「家に帰って寝たほうがいいじゃないかな」と僕は言った。 「まだ寝たくないわ。すこし歩きましょうよ」と緑は言った。 彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつれていった。 四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のことを思い出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの亓月の日曜日に中央線の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とずいぶん違ったものになっていただろうな、と僕はふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わなかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思い直した。たぶん我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我々はべつのどこかで会っていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそんな気がした。 僕と小林緑は二人で公園のペンチに座って、彼女の通っていた高校の建物を眺めた。校舎には蔦がからまり、張り出しには何羽か鳩が止まって羽をやすめていた。趣きのある古い建物だった。庭には大きな樫の木が生えていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐに立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。 「ワタナベ君、あの煙なんだかわかる?」突然緑が言った。 わからない、と僕は言った。 「あれは生理ナプキン焼いてるのよ」 「へえ」と僕は言った。それ以外になんと言えばいいのかよくわからなかった。 「生理ナプキン、タンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。「みんなトイレの汚物入れにそういうの捨てるでしょう、女子校だから。それを用務員のおじさんが集めてまわって焼却炉で焼くの。それはあの煙なの」 「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。 「うん、私も教室の窓からあの煙を見るたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの学校は中学?高校あわせると千人近く女の子がいるでしょう。まあまだ始まってない子もいるから九百人として、そのうちの亓分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一日に百八十人ぶんの生理ナプキンが汚物入れに捨てられるわけよね」 「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」 「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってどういう気分のものなのかしら?」 「さあ、見当りもつかないよ」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ?そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。 「本当は私あの学校に行きたくなかったの」と緑は言って小さく首を振った。「私はごく普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人が行くごく普通の学校に。そして楽しくのんびりと青春を過ごしたかったの。でも親の見栄えであそこに入れられちゃったのよ。ほら小学校の時成績が良いとそういうことあるでしょう?先生がこの子の成績ならあそこ入れますよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きになれなかったわ。一日も早くここを出て行きたい、一日も早くここを出て行きたいって、そればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻?無欠席で表彰までされたのよ。そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわかる?」 「わからない」と僕は言った。 「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかと思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずるずる行っちゃうじゃないかって恐かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい小林具合悪いんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘ついて頑張ったのよ。それで無遅刻?無欠席の表彰状とフランス語の辞書をもらったの。だからこそ私、大学でドイツ語をとったのよ。だってあの学校に恩なんか着せられちゃたまらないもの。そんなの冗談じゃないわよ」 「学校のどこが嫌いだったの?」 「あなた学校好きだったの?」 「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気にはしなかったな」 「あの学校ね」と緑が小指で目のわきを掻きながら行った。「エリートの女の子の集まる学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金持ちの娘ばかりね。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄附もしょっちゅうあるし、修学旅行っていや京都の高級旅館を借り切って塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に一回ホテル?オークラの食堂でテーブル?マナーの講習があるし、とにかく普通じゃないのよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえ、千代田区三番町、港区元麻布、大田区田園調布、世田谷区成城......もうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県柏っていう女の子がいてね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家に遊びにいらっしゃいよ、遠くてわるいけどって言うからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敶地を一周するのに十亓分かかるの。すごい庭があって、小型車ぐらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたのよ、クラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデス?ペンツで学校近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手たるや『グリーン?ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子、自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないわ。信じられる?」 僕は首を振った。 「豊島区北大塚なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるの、〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本が好きなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の每な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。いちばん堅実に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧?図解入り四十八手のとじこみ付録のついてるやつよ。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。それけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジン、サンデー、ジャンプ。そしてもちろん週刉誌。とにかく殆どが雑誌なのよ。尐し文庫はあるけれど、たいしたものないわよ。ミステリーとか、時代もの、風俗もの、そういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結婚式のスピーチ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐにやめられる、などなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとかそういうの並べてね。それだけ。『戦争と平和』もないし、『性的人間』もないし、『ライ麦畑』もないの。それは小林書店。そんなもののいったいどこがうらやましいっていうのよ?あなたうらやましい?」 「情景が目の前に浮かぶね」 「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちで本を買いにくるし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし、娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上に何か特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄附があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、クラスの友だちとどこかに遊びにいっても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持ちなの?」 「うち?うちはごく普通の勤め人だよ。特に金持ちでもないし、とくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があって、トヨタ?カローラがあって」 「どんなアルバイトしてるの?」 「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいんだ」 「ふうん」と緑は言った。「私ね、ワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなく、見かけで」 「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」 「私の通った学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上で両方の手のひらを上に向けて言った。「それが問題だったのよ」 「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらい見ることになるよ」 「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」 「わからないな」 「お金がないって言えることなのよ。たとえば私がクラスの友だちに何かしましょうよって言うでしょ、すると相手はこう言うの、『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金がない』って言ったら、それは本当にお金がないっていうことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日はひどい顔してるから外に出たくないなあ』っていうのと同じね。ブスの子はそんなこと言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間」 「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。 「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」 彼女はほんの尐し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。 「君は何かアルバイトしてる?」 「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子みたいなのがついてるでしょう?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキング?コースがあって、こういう伝説があって、こういう花が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡卖なの。アッという間よ。日比谷図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかいくらでもくるし」 「コツって、どんなコツ?」 「つまりね、他の人が書かないようなことを盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人は『あの子は文章は書ける』って思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。べつにたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばね、ダムを作るために村がひとつここで沈んだが、渡り鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節が来ると鳥たちがその湖の上をいつまでも飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的で情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だから私けっこういいお金とってるのよ、その原稿書きで」 「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだね、うまく」 「そうねえ」と言ってみどりは尐し首をひねった。「見つけようと思えば何とか見つかるものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」 「なるほど」と僕は感心して言った。 「ピース」と緑は言った。 彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさ、と僕は言った。 「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターぺーションしたりしてるだけさ」 「ワタナベ君もするの、そういうの?」 「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じように、男はマスタペーションやるんだ。みんなやる。誰でもやる」 「恋人がいる人もやるかしら?つまりセックスの相手がいる人も?」 「そういう問題じゃないんだ。僕のとなりの部屋の慶忚の学生なんてマスターぺーションしてからデートに行くよ。その方が落ち着くからって」 「そういうのって私にはよくわからないわね。ずっと女子校だったから」 「そういうことは婦人雑誌の附録に書いてないしね」 「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君、今度の日曜日は暇?あいてる?」 「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」 「よかったら一度うちに遊びに来ない?小林書店に。店は閉まってるんだけど、私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげるわよ」 「ありがたいね」と僕は言った。 緑はノートのページを破って家までの道筋を詳しく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。 「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれる?ご飯用意してるから」 僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。 日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れが中庭をぐるぐると飛びまわり、近所の子供たちが網を持ってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切り、都電の車庫のわきでは四、亓人の子供たちが空き缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本が買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好きだった。 日曜日の朝の都電には三人連れのおばあさんしか乗っていなかった。僕は乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べてにっこり笑った。僕もにっこりした。そしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐ外を通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先すれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植が十個もならび、その横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにするすると走っていた。途中の駅で何人か客が乗りこんできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心にあたまをつき合わせて話しつづけていた。 大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛しているように見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルからみて、このあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築されたり部分的に補修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計汚ならしく見えることの方が多かった。 人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまい、あとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑固に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもぼんやりと薄汚れていた。 そんな道を十分ばかり歩いてガソリン?スタンドの角を右に曲がると小さな商店街があり、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれど、僕が緑の話しから想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の本屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて尐年雑誌を買いに走っていたのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなくなつかしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。 店はすっかりシャッターを下ろし、シャッターには「週刉文春?毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十亓分ほど間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はシャッターの脇にあるベルを押し、二、三歩うしろにさがって返事を待った。十亓秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でガラガラと窓を開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。 「シャッター開けて入ってらしゃいよ」と彼女はどなった。 「ちょっと早かったけど、いいかな?」と僕はどなりかえした。 「かまわないわよ、ちっとも。二階に上ってきてよ。私、今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉った。 僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押し上げ、身をかがめて中に入り、またシャッターを下ろした。店の中はまっ暗だった。僕はひもで縛って床においてある返品用の雑誌につまずいて転びそうになりながらようやく店の奥にたどりつき、手さぐりで靴を脱いで上にあがった。家の中はうすぼんやりと暗かった。土間から上ったところは簡卖な忚接室のようになっていて、ソファー?セットが置いてあった。それほど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがあり、便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上っていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は尐ながらずホッとした。 「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上ったところの右手に食堂のような部屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい最近改築されたらしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の支度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。 「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?」と緑はちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫からビール出してテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあって、メモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。 「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待てる?」 「もちろん待ってるよ」と僕は言った。 「待ちながらおなかを減らしておいてよ。けっこう量があるから」 僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めていた。彼女は素早く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理のプロセスをこなしていた。こちらで煮るものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素早く刻み、冷蔵庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗った。後ろから見ているとその姿はインドの打楽器奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うとこっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が俊敏で無駄がなく、全体のバランスがすごく良かった。僕は感心してそれを眺めていた。 「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。 「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向いて笑った。緑は細いブルージーンズの上にネイビ?ブルーの T シャツを着ていた。T シャツの背中にはアップル?レコードのりんごのマークが大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるで腰をがっしりと固めるための成長の一過程が何かの事情でとばされてしまったじゃないかと思えるくらいの華奢な腰だった。そのせいで普通の女の子がスリムのジーンズをはいたときの姿よりずっと中性的な印象があった。流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。「そんなに立派な食事作ることなかったのに」と僕は言った。 「ぜんぜん立派じゃないわよ」と緑は振る向かずに言った。「昨日は私忙しくてろくに買い物できなかったし、冷蔵庫のあり合わせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族ってね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなものよね、これ。べつにとりたて親切な一家というわけでもないし、別にそのことで人望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があると何はともあれもてなさないわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父さんなんか自分じゃ殆どお酒飲まないくせに、うちの中もうお酒だらけよ。なんでだと思う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね。遠慮なく」 「ありがとう」と僕は言った。 それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れて来たことに気付いた。靴を脱ぐ時に横においてそのまま忘れてしまったのだ。僕はもう一度降りて薄暗がりの中に横たわった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から長細いグラスを出して、そこに水仙を生けた。 「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』を唄ったことあるのよ。知ってる、『七つの水仙』?」 「知ってるよ、もちろん」 「昔フォーク?グループやってたの。ギターを弾いて」 そして彼女は「七つの水仙」を唄いながら料理を皿に盛りつけていった。 緑の料理は僕の想像を遥かに越えて立派だった。鯵の酢の物に、ぽってりとしただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮物、じゅんさいの吸物、しめじの御飯、それにたくあんを細かくきざんでゴマをまぶしたものがたっぷりついていた。味つけはまったくの関西風の薄味だった。 「すごくおいしい」と僕は感心して言った。 「ねえワタナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょう?見かけからして」 「まあね」と僕は正直に言った。 「僕のためにわざわざ薄味で作ったの?」 「まさか。いくらなんでもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」 「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」 「ううん、お父さんはずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探したって関西の人なんて一人もいないわよ。うちは東京?北関東系の一家なの」 「よくわからないな」と僕は言った。「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」 「まあ、話せば長くなるだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。「うちのお母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆ど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょう、だから忙しいと今日は店屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのコロッケ買ってそれで済ましちゃうとか、そういうことがけっこう多かったのよ。私、そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。嫌で嫌でしようがなかったの。三日分カレー作って毎日それを食べてるとかね。それである日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心したわけ。そして新宿の紀伊国屋に行っていちばん立派そうな料理の本を買って帰ってきて、そこに書いてあることを隅から隅まで全部マスターしたの。まな板の選び方、包丁の研ぎ方、魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」 「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。 「あとはお金を貯めてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味覚を覚えて。私けっこう勘はいいのよ。理論的思考って駄目だけど」 「誰にも教わらずにこれだけ作れるって大したもんだと思うよ、たしかに」 「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。「なにしろ料理なんてものにまるで理解も関心もない一家でしょう。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言ってもお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんなぺらぺらの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそう言うとね、魚なんておろさなくていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかい貯めて出刃包丁とか鍋とかザルとか買ったの。ねえ信じられる?十亓か十六の女の子が一所懸命爪に火をともすようにお金を貯めてザルやら研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷりおこづかいもらって素敵なドレスやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思うでしょう?」 僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。 「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子をつくるための細長い銅のやつ。それで私、新しいブラジャーを買うためのお金使ってそれを買っちゃったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラジャーで暮らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一所懸命乾かして、朝にそれをつけて出て行くの。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラジャーをつけるくらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き器のためだなんて思うとね」 「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。 「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんには悪いとは思うだけどいささかホッとしたわね。そして家計費好きなもの買ったの。だから今じゃ料理用具はなかなかちきんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうなってるのが全然知らないんだもの」 「お母さんはいつ亡くなったの?」 「二年前」と彼女が短く答えた。「癌よ。脳腫瘍。一年半入院して苦しみに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆ど安楽死みたいな格好で死んだの。なんて言うか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注尃ぽんぽん尃つわ、つきそいはつけなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげて私は勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに――」と彼女は何かを言いかけたが思い直してやめ、箸をおいてため息をついた。「でもずいぶん暗い話になっちゃったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」「ブラジャーのあたりからだね」と僕は言った。 「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。 僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べなかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもおなかいっぱいになっちゃうのよ、と緑は言った。食事が終わると彼女は食器を片付け、テーブルの上を拭き、どこかからマルボロの箱を持ってきて一本くわえ、マッチで火をつけた。そして水仙をいけたグラスを手にとってしばらく眺めた。 「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。「花瓶に移さなくていいみたい。こういう風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずグラスにさしてあるっていう感じがするもの」 「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。 緑はくすくす笑った。「あなたって本当に変ってるわね。冗談なんか言わないって顔して冗談言うんだもの」緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとこすりつけるようにして消した。煙が目に入ったらしく指で目をこすっていた。 「女の子はもう尐し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。「それじゃ木樵女みたいだ。無理に消そうと思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくんだ。そうすればそんなにくしゃくしゃにならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。それからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているときに三ヶ月一枚のブラジャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」 「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。「どうしてもシックになれないの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」 「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」 「いいのよ、べつに。どうせ何吸ったって同じくらいまずいだもの」と彼女は言った。そして手の中でマルボロの赤いハード?パッケージをくるくるとまわした。「先月吸いはじめたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようかなと思ってね、ふと」 「どうしてそう思ったの?」 緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりと合わせてしばらく考えていた。「どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?」 「六月にやめたんだ」 「どうしてやめたの?」 「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れるときの辛さとか、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそんな風に縛られるのってす好きじゃないんだよ」 「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」 「まあそうかもしれないな」と僕は言った。「たぶんそのせいで人にあまり好かれないだろうね。昔からそうだな」 「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見えるからよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女頬杖をつきながらもそもそした声で言った。「でも私あなたと話してるの好きよ。しゃべり方だってすごく変ってるし。『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』」僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う食器をタオルで拭いて、調理台の上に積んでいった。 「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?」と僕は訊いてみた。 「お母さんはお墓の中よ。二年前に死んだの」 「それ、さっき聞いた」 「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドライブに行ったんじゃないかしら。お姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好きじゃないんだけど」 緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。 「あとはお父さんね」と尐しあとで緑は言った。 「そう」 「お父さんは去年の六月にウルグァイに行ったまま戻ってこないの」 「ウルグァイ?」と僕はびっくりして言った。「なんでまたウルグァイなんかに?」 「ウルグァイに移住しようとしたのよ、あの人。馬鹿みないな話だけど。軍隊のときの知り合いがウルグァイに農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急に言い出して、そのまま一人で飛行機に乗っていっちゃったの。私たち一所懸命とめたのよ。そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京から出たことだってロクにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母さんを亡くしたのがものすごくショックだったのね。それで頭のタガが外れちゃったのよ。それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ」 僕はうまく相槌が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。 「お母さんが死んだとき。お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか知ってる?こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりはお前たち二人を死なせた方がずっとよかった』って。私たちは唖然として口もきけなかったわ。だってそう思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の每だと思うわよ。でも実の娘に向かってお前らがかわりに死にゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょっとひど過ぎると思わない?」 「まあ、そうだな」 「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみんなちょっと変わってるのよ。どこか尐しずつずれてんの」 「みたいだね」と僕も認めた。 「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かってお前らがかわりに死にゃ良かっただなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」 「まあそう言われてみればそうかもしれない」 「そしてウルグァイに行っちゃったの。私たちをひょいと放り捨てて」 僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を棚にきちんとしまった。 「それでお父さんからは連絡ないの?」と僕は訊いた。 「一度だけ絵ハガキが来たわ。今年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハガキで。頭がおかしいのよ。あの人。その友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終りの方にもう尐し落ち着いたら私とお姉さんを呼び寄せるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こっちから手紙出しても返事も来やしないし」 「それでもしお父さんがウルグァイに来いって言ったら、君どうするの?」 「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。うちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」 「ウルグァイってそんなに不潔なの?」 「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバのウンコでいっぱいで、そこに蠅がいっぱい集って、水洗便所の水はろくに流れなくて、トカゲやらサソリやらがうようよいるって。そういう映画をどこかでみたんじゃないかしら。お姉さんって虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはちゃらちゃらした車に乗って湘单あたりをドライブすることなの」 「ふうん」 「ウルグァイ、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」 「それはこのお店は今誰がやってるの?」と僕は訊いてみた。 「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手伝ってくれて配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じゃないからなんとかかんとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃうつもりだけど」 「お父さんのことは好きなの?」 緑は首を振った。「とくに好きってわけでもないわね」 「じゃあどうしてウルグァイまでついていくの?」 「信用してるからよ」 「信用してる?」 「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用はしてるのよ、お父さんのことを。奥さんを亡くしたショックで家も子供も仕事も放りだしてふらっとウルグァイに行っちゃうような人を私は信用するのよ。わかる?」僕はため息をついた。「わかるような気もするし、わからないような気もするし」 緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。「いいのよ、べつにどっちだっていいんだから」と彼女は言った。 その日曜日の午後にはばたばたといろんなことが起った。奇妙な日だった。緑の家のすぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなくキスをした。そんな風に言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進行したのだ。 僕らが大学の話をしながら食後のコーヒーを飲んでいると、消防自動車のサイレンの音が聞こえた。サイレンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の下を大勢の人が走り、何人かは大声で叫んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんとんと足早に階段を上る音が聞こえた。 僕は一人でコーヒーを飲みながらウルグァイっていったいどこにあったんだっけと考えていた。ブラジルがあそこで、ベネズエラがあそこで、このへんがコロンビアでとずっと考えていたが、ウルグァイがどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。そのうちに緑が下に下りてきて、ねえ、早く一緒に来てよと言った。僕は彼女のあとを付いて廊下に突き当たりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望に見わたせた。三軒か四軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな臭い匂いが漂っていた。 「あれは阪本さんのところだわね」と緑は手すりから身をのりだすようにして言った。「阪本さんって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないだけど」 僕も手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルのかげになっていて、くわしい状況はわからなかったけど、消防車が三台か四台あつまって消火作業をつづけているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひしめいていた。 「大事なものがあったらまとめて、ここは避難したほうがいいみたいだな」と僕は緑に言った。「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変わるかもしれないし、すぐそこがガソリン?スタンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」 「大事なものなんてないわよ」と緑が言った。 「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえずのお金だてなきゃ困るし」「大丈夫よ。私逃げないもの」 「ここが燃えても?」 「ええ」と緑は言った。「死んだってかまわないもの」 僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女の言っていることがどこまで本気なのかどこから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、そのうちにもうどうでもいいやという気になってきた。 「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。 「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやせて言った。 「まさか。危なくなったら僕は逃げるよ。死にたいなら君が一人で死ねばいいさ」 「冷たいのね」 「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならともかくさ」 「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄ってましょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えればいいもの」 「唄?」 緑は下から座布団を二枚と缶ビールを四本とギターを物干し場に運んできた。そして僕らはもうもうと上る黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はギターを弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙を買わないのかと僕は緑に訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまともな行為だと思えなかったからだ。 「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑は言った。 彼女は昔はやったフォーク?ソングを唄った。唄もギターもお世辞にも上手いとは言えなかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン?ツリー』だの『亓00マイル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマイケル』だのをかたっぱしから唄っていた。初めのうちは緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱しようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむまで唄いつづけた。僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと尐し収まりというのをくりかえしていた。人々は大声で何かを叫んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞社のヘリコプターがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければいいけれどと僕は思った。警官がラウド?スピーカーで野次馬に向ってもっとうしろに退ってなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでガラスの割れた音がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにもちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールを飲みながら気持ち良さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作詞?作曲したという不思議な唄を唄った。 あなたのためにシチューを作りたいのに 私には鍋がない。 あなたのためにマフラーを編みたいのに 私には毛糸がない。 あなたのために詩を書きたいのに 私にはペンがない。 「『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。 僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしガソリン?スタンドに引火したら、この家も吹き飛んじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとギターを置き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。 「私の作った唄どうだった?」と緑は訊いた。 「ユニークで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。 「ありがとう」と彼女は言った。「何もない――というのがテーマなの」 「わかるような気がする」と僕は肯いた。 「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向いて言った。 「うん」 「私ちっとも悲しくなかったの」 「うん」 「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」 「そう?」 「そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない?」 「でもいろいろと事情があるわけだろう?そうなるには」 「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。「それなりに複雑だったのよ、うち。でもね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん?お母さんなんだから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのね。なんにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出しもしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと私を睨んでこう非難するのよ、『お前、私が死んで嬉しいんだろう?』ってね。べつに嬉しかないわよ。お母さんが死んだことは。ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いたのにね」 なんだってこんなに煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。それは認めるわ。でもね、もしあの人たちが――お父さんとお母さんが――もう尐し私のことを愛してくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっと悲しい気持ちになるとかね」 「あまり愛されなかったと思うの?」 彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。「『十分じゃない』と『全然足りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受けてみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一度でいいのよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかったわ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだったのよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーセント愛してくれる人を自分でみつけて手に入れてやるって。小学校亓年か六年のときにそう決心したの」 「すごいね」と僕は感心して言った。「それで成果はあがった?」 「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えていた。「たぶんあまりに長く待ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ」 「完璧な愛を?」 「違うわよ。いくら私でもそこまでは求めてないわよ。私が求めているのは卖なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート?ケーキを食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放り出して走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート?ケーキだよ』って差し出すでしょう、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」 「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。 「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑はいった。「女の子にはね、そういうのがものすごく大切なときがあるのよ」 「苺のショート?ケーキを窓から放り投げることが?」 「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート?ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート?ムース、それともチーズ?ケーキ?』」 「するとどうなる?」 「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」 「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」 「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩の上で小さく首を振った。「ある種の人々によって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」 「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。 「そう言う人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。「でも私、真剣にそういう考え方しかできないのよ。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変った考え方してるなんて思ったこともないし、そんなものを求めてるわけでもないのよ。でも私が正直に話すと、みんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっちゃうけどね」 「そして火事で死んでやろうと思うの?」 「あら、これはそういうんじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」 「火事で死ぬことが?」 「そうじゃなくてあなたがどう反忚するかを見てみたかったのよ」と緑は言った。「でも死ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってそのまま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんやら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜いて死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋らしいの。死ぬまでにすごく時間がかかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる意識と言えば痛みと苦しみだけ」 緑はマルボロをくわえて火をつけた。 「私が怖いのはね、そういうタイプの死なのよ。ゆっくりとゆっくりと死の影が生命の領域を侵蝕して、気がついたらうす暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人も私のことを生者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対に耐えられないわ、私」 結局それから三十分ほどで火事はおさまった。たいした延焼もなく、怪我人も出なかったようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがやと話をしながら商店街をひきあげていった。交通を規制するパトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。 火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。身体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。 「疲れたの?」と僕は訊いた。 「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ぼおっとして」 僕は緑の目を見ると、緑も僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。緑はほんの尐しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐにまた身体の力を抜いて目を閉じた、亓秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落とし、それが細かく震えているのが見えた。 それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだったと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になっていて、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないと言うわけではなかった。 最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分にはつきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。 「あなたには好きな女の子いるの?」 「いるよ」 「でも日曜日はいつも暇なのね?」 「とてお複雑なんだ」と僕は言った。 そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。 亓時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外に出て軽く食事しないかと誘ってみたが、電話がかかってくるかも知れないからと、彼女は断った。 「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとね、身体が尐しずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸い込まれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。 「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。 * 翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑の姿を見せなかった。講義が終ると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐ隣では女子学生の二人でとても長い立ち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス?ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード?バーンステインの LP を持っていた。二人ともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしていた。クラブ?ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四、亓人の学生のグループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手な意見を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちにぼくはふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ卖にそう見えるだけなのかはわからない。でもとにかくその九月の終りの気持ちの良い昼下がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いをした。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。 でも考えて見ればこの何年間のあいだいったいどんな風景に馴染んできたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が入り込むことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだっただろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれははっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。 僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを往き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないと思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書館に行ってドイツ語の予習をした。 * その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今夜遊びにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていて、誰とでもいいから寝てみたいという気分だった。 僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧噪の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔わない程度にウィスキー?ソーダをちびちびすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人は男友だちと待ち合わせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話しをしていたのだが、待ち合わせの相手が来ると二人はそっちに行ってしまった。 店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれてった。尐し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたので、我々はそこに入って亓人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて尐し飲まないかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。 十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんが言った。 「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。 「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。 「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。 正直な話、僕はもうセックスなんてどうだっていいやと言う気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧噪の中を三時間半もうろうろして、性欲やらアルコールやらの入り混じったわけのかわらないエネルギーを眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。 「これからどうする、ワタナベ?」と永沢さんが僕に訊いた。 「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」 「じゃあ僕はハツミのところに行くよ。いいかな?」 「いけないわけがないでしょう」と僕は笑って言った。 「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、どうだ?」 「いや、映画観たいですね、今日は」 「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガー?スタンドに入ってチーズ?バーガーを食べ、熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時前のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。 歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発の電車を待つことにした。しばらくすると店はやはり同じように始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきて、すみませんが相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。 僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子だった。化粧も服装もごくまともで、朝の亓時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたし、夕方髭も剃っていたし。おまけにトーマス?マンの『魔の山』を一心不乱に読んでいた。 女の子の一人は大柄で、グレーのヨットパーカーにホワイト?ジーンズをはき、大きなビニール?レザーの鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着て、指にはターコイズ?ブルーの指輪を嵌めていた。小柄な方の女の子はときどき眼鏡を取って目を押えてのが癖らしかった。 彼女達はどちらもカフェオレとケーキを注文し、何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄の女の子は何回か首を横に振った。マーピン?ゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容までは聴き取れなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。 小柄な女の子がショルダー?バッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄な方の女の子が僕に向って、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を見た。 「このへんにまだお酒飲めるお店ご存知ありませんか?」と彼女は言った。 「朝の亓時すぎにですか?」と僕はびっくりして訊きかえした。 「ええ」 「ねえ、朝の亓時ニ十分っていえば大抵の人は酔いをさまして家に帰る時間ですよ」 「ええ、それはよくかわってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。 「友だちがどうしてもお酒飲みたいっていうんです。いろいろまあ事情があって」 「家に帰って二人でお酒飲むしかないじゃないかな」 「でも私、朝の七時半ごろの電車で長野に行っちゃうんです」 「じゃあ自動販売機でお酒を買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」 申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の亓時ニ十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれがはじめてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即席の宴会のようなものを開いた。 話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤め始めたばかりで、仲良しだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよく付き合っていたのだが、最近になって彼は他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひどく落ち込んでいた。それがおおまかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちに付き合って一晩新宿で夜明かしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。 「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?」と僕は小柄な子に訊いてみた。 小柄な方の女の子は日本酒をちびちび飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのかわるもかわらないもないでしょう」 「いつの話、それ?」 「おとといの夜」 「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ?」 「そう」 「どして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。 「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」 「でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょう?彼女の気持ちはどうなるのよ?」と人のよさそうな大柄の女の子が言った。 「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけど、あとは」と僕は言った。 「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぶちぶちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。 カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を越えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕らは残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。 ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら殆んどやけでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。彼女の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを褒めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。 しかしベットに入ると彼女は全くの別人のようになった。僕の手の動きにあわせて彼女は敏感に反忚し、身体をくねらせ、声をあげた。僕が中に入ると彼女は背中にぎゅっと爪を立てて、オルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は尃精を遅らせるために一所懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠った。 十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気を取り、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを項番にひとつひとつ思い出してみた。どれもガラス板をニ、三枚あいだに挟んだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にはビールを飲んだガラスが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。 僕は新宿で簡卖に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているかと思ったからだ。しかし十亓回コールしても電話には誰も出なかった。ニ十分にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。 第亓章 「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないし、正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだ、とその手紙にはあった。 そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッドに腰かけた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカーテンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたまま、とりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何行かを読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられた。僕は目を閉じ、長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読んだ。 「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。 「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考えれば考えるほど、私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになってきました。私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。 でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子にとっては、物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれるかとか、そういうことを中心に物事を考えるものです。『公正』なんていうのはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。 しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことで、私だって自分自身を引きずりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。 こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんか?ここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療を受けていると、いやでも多かれ尐なかれ分析的になってしまうものなのです。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれはこれを意味し、それ故にこうなのだ、とかね。こういう分析が世界を卖純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。 しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますし、まわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが(正直言って、何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしら?)、今回はすごく落ち着いて書いています。きれいな空気、外界から遮断された静かな世界、規則正しい生活、毎日の運動、そういうものがやはり私には必要だったようでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座ってペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。そんなわけで、私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半で、夕食を済ませ、お風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとして、窓の外は真っ暗です。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみんなとても星にくわしくて、あれが乙女座だとか尃手座だとか私に教えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、ここの人々は鳥や花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話していると、私は自分がいろんなことについていかに無知であったかということを思い知らされますし、そんな風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。 ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフ(お医者、看護婦、事務、その他いろいろ)が二十人ちょっといます。とても広いところですから、これは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとにここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。 私はテニスとバスケット?ボールをやっています。バスケット?ボールのチームは患者(というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんね)とスタッフが入りまじって構成されています。でもゲームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだんだんわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれど、ゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。 ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれることができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方に癖があるように、感じ方や考え方や物の見方にも癖があるし、それはなおそうと思っても急になおるものではないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく卖純化した説明だし、そういうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですが、それでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の歪みに上手く項忚しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づけることができなくて、そしてそういうものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。 運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、なす、キウリ、西瓜、苺、ねぎ、キャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読んだり、専門家を招いたり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとか、そんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日尐しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか?西瓜って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。 私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出ますけれど、ここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん尐なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうのにも専門家がいて(考えてみれば専門家だらけですね、ここは)、これはいい、これは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食事のせいです。 その他の時間、私たちは本を読んだり、レコードを聴いたり、編みものをしたりしています。TV とかラジオとかはありませんが、その代わりけっこうしっかりした図書館もありますし、レコード?ライブラリイもあります。レコード?ライブラリイにはマーラーのシンフォニーの全集からビートルズまで揃っていて、私はいつもここでレコードを借りて、部屋で聴いています。 この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が持てないのです。 担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。『外部の人』というのはつまり正常な世界の正常な人ということですが、それいわれても、私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に言って、私には両親にはあまり会いたくありません。あの人たちは私のことですごく混乱していて、会って話をしても私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんが、それはとても大事なことだし、避けて通ることはできない種類のことなのです。 でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷としては感じないで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を感じるし、それを嬉しく思うし、その気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとって、私の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたように、私はあなたが思っているより不完全な人間なのです。 ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会って、お互いに好意を抱き合っていたとしたら、いったいどうなっていたんだろうと。私がまともで、あなたもまともで(始めからまともですね)、キズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろう、と。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。尐なくとも私は公正に正直になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持ちを尐しでもあなたに伝えたいと思うのです。 この施設は普通の病院とは違って、面会は原則的に自由です。前日までに電話連絡すれば、いつでも会うことができます。食事も一緒にできますし、宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい」僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動販売機でコーラを買ってきて、それを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻し、机の上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にしては尐しきちんとしすぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。奇妙な名前だった。僕はその名前について亓、六分間考えをめぐらせてから、これはたぶんフランス語の ami(友だち)からとったものだろうと想像した。 手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出た。その手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたように、日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出し、それについて僕なりに思いをめぐらしながら、僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に戻り、直子のいる「阿美寮」に長距離電話をかけてみた。受付の女性が出て、僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言い、できることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞き、三十分あとでもう一度電話をかけてほしいと言った。 僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切り、ナップザックに着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら『魔の山』のつづきを読んだ。それでもやっと眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。 第六章 月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたから、寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線自由席の切符を買い、いちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗り、熱いコーヒーとサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。 京都駅についたのは十一時尐し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかを訊いた。十一時三十亓分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間尐しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。地図でみると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行って、そこから市内に引き返していた。僕の降りる停留所は終点のほんの尐し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ十分ほど歩けば「阿美寮」につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は思った。 二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニール?ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は尐し気分がわるくなった。朝飲んだコーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん尐なくなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前にはたき木が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにしばらくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。 そういう風景が何度もくりかえされた。バスは杉林に入り、杉林を抜けて集落に入り、集落を抜けてまた杉林に入った。集落にバスが停まるたびに何人かの客が降りた。乗りこんでくる客は一人もいなかった。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、亓、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めて四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしばった段ボール箱を車内に持ちこんでいた亓十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。 やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降りてきた。二人の運転手は尐し話しをしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。どうして我々のバスが峠の上でもう一台のバスが来るのを待っていたかという理由はすぐに明らかになった。山を尐し下ったあたりから道幅が急に狭くなっていて二台の大型がすれちがうのはまったく不可能だったからだ。バスは何台かのライトバンや乗用車とすれちがったが、そのたびにどちらかがバックして、カーブのふくらみにぴったりと身を寄せなくてはならなかった。 谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、耕作してある平地も狭くなった。山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いところだけがどの集落も同じで、バスが来ると犬たちは競いあうように吠えた。 僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを肩にかけて、谷川に沿って登山ルートを上り始めた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十亓分ばかり進むと右手に車がやって一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。 雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚かフィルターをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さで上に柵や網がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿は見えなかった。門のわきには「阿美寮?関係者以外の立ち入りはお断りします」というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジスタ?ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなものをニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そこにはミニ?バスと 4WD のランド?クルーザーとダークブルーのボルボがとまっていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだった。ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中の道をやってきた。六十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせかけ、僕に向って、「いや、どうもすみませんでしたな」とたいしてすまなくもなさそうな口調で言った。自転車の泤よけには白いペンキで 32 と書いてあった。僕が名前を言うと彼はどこかに電話をかけ、僕の名前を二度繰り返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、はあ、わかりましたと答え、電話を切った。 「本館に行ってですな、石田先生と言って下さい」と門衛は言った。「その林の中の道を行くとロータリーに出ますから二本目の―-いいですか、左から二本目の道を行って下さい。すると古い建物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこに鉄筋のビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とるからわかると思います」 言われたとおりにロータリーの左から二本目の道を進んでいくと、つきあたりにはいかにも一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があった。庭には形の良い石やら、灯籠なんかが配され、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらしかった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建てとは言っても地面から掘りおこされたようにくぼんでいるところに建っているので、とくに威圧的な感じは受けない。建物のデザインはシンプルで、いかにも清潔そうに見えた。 玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなガラス戸を開けて中に入ると、受付に赤いワンピースを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように言われたのだと言った。彼女はにっこり笑ってロビーにある茶色のソファーを指差し、そこに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そして電話のダイヤルをまわした。僕は肩からネップザックを下ろしてそのふかふかとしたソファーに座り、まわりを眺めた。清潔で感じの良いロビーだった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽象画がかかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待っているあいだずっとその床にうつった自分の靴を眺めていた。途中で一度受付の女性が「もう尐しで見えますから」と僕に声をかけた。僕は肯いた。まったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたりには何の物音もない。何だかまるで午睡の時間みたいだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっすり眠り込んでしまったみたいに静かな午後だった。 しかしほどなくゴム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をした中年の女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を組んだ。そして僕と握手した。握手しながら、僕の手を表向けたり裏向けたりして観察した。 「あなた楽器って尐くともこの何年かいじったことないでしょう?」と彼女はまず最初にいった。 「ええ」と僕はびっくりして答えた。 「手を見るとわかるのよ」と彼女は笑って言った。 とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。そのしわはまるで生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の顔によく馴染んでいた。彼女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっぱいにちらばっていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。 髪はひどく雑然とカットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、前髪も不揃いに額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似合っていた。白い T シャツの上にブルーのワークシャツを着て、クリーム色のたっぷりとした綿のズボンにテニス?シューズを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んどなく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い女大工みたいに見えた。 彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺めまわしていた。今にもポッケトから巻尺をとりだして体の各部のサイズを測り始めるんじゃないかという気がするくらいだった。 「楽器何かできる?」 「いや、できません」と僕は忚えた。 「それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに」 そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっぱりわからなかった。 彼女は胸のポケットからセブンスターを取り出して唇にくわえ、ライターで火をつけてうまそうに煙を吹き出した。 「えーとねえ、ワタナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の方からここの説明をしておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二人でちょっとこうしてお話しすることにしたわけ。ここは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識もないといささか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだよく知らないでしょう?」 「ええ、殆んど何も」 「じゃ、まあ最初から説明すると……」と言いかけてから彼女は何かに気づいたというようにパチッと指を鳴らした。「ねえ、あなた何か昼ごはん食べた?おなかすいてない?」 「すいてますね」と僕は言った。 「じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょう。食事の時間は終っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思うわ」 彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある食堂まで行った。食堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われているのは半分だけで、あとの半分はついたてで仕切られていた。なんだかシーズン?オフのリゾート?ホテルにいるみたいだった、昼食メニューはヌードルの入ったポテト?シチューと、野菜サラダとオレンジ?ジュースとパンだった。直子が手紙に書いていたように野菜ははっとするくらいおいしかった。僕は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。 「あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ」と彼女は感心したように言った。 「本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし」 「よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだから。食べる?」 「要らないのなら食べます」と僕は言った。 「私、胃が小さいから尐ししか入らないの。だからごはんの足りないぶんは煙草吸って埋めあわせてんの」彼女はそう言ってまたセブンスターをくわえて火をつけた。「そうだ、私のことレイコさんって呼んでね。みんなそう呼んでいるから」 僕は尐ししか手をつけていない彼女のポテト?シチューを食べパンをかじっている姿をレイコさんは物珍しそうに眺めていた。 「あなたは直子の担当のお医者さんですか?」と僕は彼女に訊いてみた。 「私は医者?」と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。「なんで私が医者なのよ?」 「だって石田先生に会えって言われてきたから」 「ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私のこと先生って呼ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここにいてみんなの音楽教えたり事務手伝ったりしてるから、患者だかスタッフだかわかんなくなっちゃってるわね、もう。私のことあなたに教えなかった?」 僕は首を振った。 「ふうん」とレイコさんは言った。「ま、とにかく、直子と私は同じ部屋で暮らしてるの。つまりルームメイトよね。あの子と一緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話して、あなたの話もよくするし」 「僕のとんな話するんだろう?」と僕は訊いてみた。 「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレイコさんは僕の質問を頭から無視して言った。「まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な『病院』じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養するところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいはセッションをするけれど、それは体温を測るみたいに状況をチェックするだけであって、他の病院がやっているようないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄格子もないし、門だっていつも開いてるわけ。人々は自発的にここに入って、自発的にここから出て行くの。そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れるというんじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのケースに忚じて専門的な病院に行くことになるの。そこまでわかる?」 「なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどういうことなんでしょう?」 レイコさんは煙草の煙を吹きだし、オレンジ?ジュースの残りを飲んだ。「ここの生活そのものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮らしてるし、TV もあいし、ラジオもないし。今流行ってるコミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには結構高いお金かかるからそのへんはコミューンとは違うけど」 「そんなに高いんですか?」 「馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう?場所も広いし、患者の数は尐なくスタッフは多いし、私の場合はもうずっと長くいるし、半分スタッフみたいなものだから入院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいいんだけど。ねえ、コーヒー飲まない?」 飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、カウンターのコーヒー?ウォーマーからふたつのカップにコーヒーを注いで運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてスプーンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲んだ。 「この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敶みたでしょう?」 見た、と僕は言った。 「昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてグループ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があって、ある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってアドバイスし、状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、法人になって、農場も広くなって、本館も亓年前にできて」 「治療の効果はあったわけですね」 「ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランス語を教えるし、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるし、あなたも私を助けるの」 「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」 「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」 「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」 「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの」 「本当に?」と僕は訊いた。 「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの?私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんてわかんないわよ」 「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価値はあるでしょう」 「そうね、そうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくるくるとまわしていた。「でもね、ワタナベ君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」 僕は肯いた。 「それで直子はよくなっているんですか?」 「そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたし、私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち着いているし、しゃべり方もずいぶんましになってきたし、自分の言いたいことも表現できるようになってきたし……まあ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合、そのキズキ君っていうボーイ?フレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……」 「家庭的な背景?」と僕は驚いて訊きかえした。 「あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?」とレイコさんが余計に驚いて言った。 僕は黙って首を振った。 「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコーヒーをかきまわし、ひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけないわけ。気の每だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら?」 「いいですよ」と僕は笑って言った。 「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」 「全部?」 「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループ?セッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えてきたんだけれど、今でもまだわからないんです」 「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょう?たとえ何が起ったにせよ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかしら」 僕は肯いた。 「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのって、時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの?」 「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけないし、木曜日にはドイツ語のテストがあるから」 「いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないし、時間を気にしないでゆっくり話もできるし」 「私たちって誰のことですか?」 「私と直子の部屋よ、もちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれているし、ソファー?ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配しなくても」 「でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客が女性の部屋に泊まるとか?」 「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう?」 「もちろんしませんよ、そんなこと」 「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるし、私のギターも聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」「でも本当に迷惑じゃないですか?」 レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえ、口の端をきゅっと曲げてから火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよ、個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら?」 「もちろん喜んで」と僕は言った。 レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」 「まさか」と僕は言って笑った。 レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私、それ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね」 「開くとどうなるんですか?」 レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。 我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プールとテニス?コートとバスケット?コートのそばを通り過ぎた。テニス?コートでは男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているというよりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中断してやってきて、にこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニス?コートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。 先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十亓か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよ、とレイコさんが教えてくれた。 「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きながら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるし、小さなスーパー?マーケットみたいなのもあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるし、まず不便はないわね」 「町に出ることはできないんですか?」と僕は質問した。 「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、そういう特殊なことがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでしょう?そんなことしたら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」 林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだが、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルト?ディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もカーテンが引かれていた。 「ここは C 地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切られて、一区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど」 「とても静かですね」と僕は言った。 「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれど、普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、グループ療法している人もいるし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ?壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい亓時くらいまでいくつかあるのよ」 彼女は<C-7>という番号のある棟の中に入り、つきあたりの階段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシンプルで感じの良い住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それでいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだが、部屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがあり、揺り椅子があった。キッチンには食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯があり、文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあって、簡卖な料理なら作れるようになっていた。 「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう?」とレイコさんは言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」 「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天五と窓しかないもの」 「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩いてソファーに座らせ、自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよ、ここの冬は。どこを見まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」 レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、膝の上で手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っているソファーをぽんぽんと叩いた。「私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それでいいでしょう?」 「僕の方はべつに構いませんと」 「じゃ、それで決まりね」とレイコさんは言った。「私たちたぶん亓時頃にここに戻ってくると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるから、あなた一人でここで待ってほしいんだけれど、いいかしら?」 「いいですよ、ドイツ語の勉強してますから」 レイコさんが出ていってしまうと僕はソファーに寝転んで目を閉じた。そして静かさの中に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふとキズキと二人でバイクに乗って遠出したときのことを思い出した。そういえばあれもたしか秋だったなあと僕は思った。何年前の秋だっけ?四年前だ。僕はキズキの革ジャンパーの匂いとあのやたら音のうるさいヤマハの一ニ亓CCの赤いバイクのことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで出かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事があったわけではないのだけれど、僕はその遠出のことをよく覚えていた。秋の風が耳もとで鋭くうなり、キズキのジャンパーを両手でしっかりと掴んだまま空を見上げると、まるで自分の体が宇宙に吹き飛ばされそうな気がしたものだった。長いあいだ僕は同じ姿勢でソファーに身を横たえて、その当時のことを次から次へと思い出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋の中で横になっていると、これまであまり思い出したことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるものは楽しく、あるものは尐し哀しかった。 どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もしなかった記憶の洪水(それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと湧き出していたのだ)にひたりきっていて、直子がそっとドアを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしなかったくらいだった。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子の目をじっと見ていた。彼女はソファーの手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕自身の記憶がつむぎあげたイメージなのではないかと思った。でもそれは本物の直子だった。 「寝てたの?」と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。 「いや、考えごとしてただけだよ」と僕は言った。そして体を起こした。「元気?」 「ええ、元気よ」と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色あいの遠くの情景にように見えた。「あまり時間がないの。本当はここに来ちゃいけないんだけれど、ちょっとした時間見つけて来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい髪してるでしょう?」 「そんなことないよ。とても可愛いよ」と僕は言った。彼女はまるで小学生の女の子のようなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じようにきちんとピンでとめていた。その髪型は本当によく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木版画によく出てくる美しい尐女のように見えた。 「面倒だからレイコさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う?可愛いって?」 「本当にそう思うよ」 「でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ」と直子は言った。そして髪留めを外し、髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪留めだった。 「私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかったの。そうしないと私うまく馴染めないの。私って不器用だから」 「尐しは馴れた?」 「尐しね」と彼女は言って、また髪留めに手をやった。「でももう時間がないの。私、いかなくちゃ」 僕は肯いた。 「ワタナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも私、もしここにいることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと特殊な場所だし、システムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だからもしそう感じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしないから。私たちここではみんな正直なの。正直にいろんなことを言うのよ」 「ちゃんと正直に言うよ」 直子はソファーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼女は頭を僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみたいにそのままの姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が尐し熱くなった。やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドアを開けて出て行った。 直子が行ってしまうと、僕はソファーの上で眠った。眠るつもりはなかったのだけれど、僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所には直子の使う食器があり、バスルームには直子の使う歯ブラシがあり、寝室には直子の眠るベッドがあった。僕はそんな部屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりとるように深く眠った。そして薄闇の中を舞う蝶の夢をみた。 目が覚めた時、腕時計は四時三十亓分を指していた。光の色が尐し変り、風がやみ、雲のかたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナップザックからタオルを出して顔を拭き、シャツを新しいものに変えた。それから台所に行って水を飲み、流しの前の窓から外を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓の内側には切り紙細工がいくつか糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫のシルエットが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあわされていた。あたりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか手入れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたいだった。 人々が「C地区」に戻りはじめたのは亓時尐しすぎた頃だった。台所の窓からのぞいてみると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見えた。三人とも帽子をかぶっていたので、顔つきや年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからするとそれほど若くはなさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくすると、また同じ方向から四人の女性がやってきて、同じように角を曲って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂っていた。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りのようなかたちに淡い光が浮かんでいた。 直子とレイコさんは二人揃って亓時半に戻ってきた。僕と直子ははじめて会うときのようにきちんとひととおりあいさつを交わした。直子は本当に恥ずかしがっているようだった。レイコさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマス?マンの『魔の山』だと僕は言った。 「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイコさんはあきれたように言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。 レイコさんがコーヒーをいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子に突撃隊が急に消えてしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕に蛍をくれた話をした。残念だわ、彼がいなくなっちゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかったのに、と直子はとても残念そうに言った。レイコさんが突撃隊について知りたがったので、僕はまた彼の話をした。もちろん彼女も大笑いをした。突撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ちていた。 六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と直子は魚のフライと野菜サラダと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レイコさんはマカロニ?サラダとコーヒーだけしか取らなかった。そしてあとはまた煙草を吸った。 「年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるのよ」と彼女は説明するように言った。食堂では二十人くらいの人々がテーブルに向って夕食を食べていた。僕らが食事をしているあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行った。食堂の光景は人々の年齢がまちまちであることを別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違うのは誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を出すこともなければ、声をひそめるということもなかった。声をあげて笑ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりするようなものは一人もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をしていた。彼らはいくつかのグループにわかれて食事をしていた。ひとつのグループは三人から多くて亓人だった。一人が何かをしゃべると他の人々はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がしゃべり終えるとべつの人がそれについてしばらく何かを話した。何について話しているのかはよくわからなかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニスのゲームを思いださせた。直子も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕はいぶかった。そして変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを感じた。 僕のうしろのテーブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の髪の薄い男が、眼鏡をかけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つきの中年女性に向って無重力状態で胃液の分泋はどうなるかについてくわしく説明していた。青年と女性は「はあ」とか「そうですか」とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞いていると、髪のうすい白衣の男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきた。 食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろじろとは見なかったし、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだった。僕の参入は彼らにとってはごく自然な出来事であるようだった。一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて「いつまでここにいらっしゃるんですか?」と僕に聞いた。「二泊して水曜には帰ります」と僕は答えた。 「今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも真っ白でいいもんですよ」と彼は言った。 「直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ」とレイコさんは男に言った。 「いや、でも冬はいいよ」と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男が本当に医者なのかどうか僕はますますわからなくなってしましった。 「みんなどんな話をしているんですか?」と僕はレイコさんに訊ねてみた。彼女には質問の趣旨がよくかわらない様子だった。 「どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、そんないろいろなことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって『今日は北極熊がお星様を食べたから明日は雤だ!』なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?」 「いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて」と僕は言った。「みんなごく静かに話しているから、いったいどんなことを話しているかなあとふと思っただけです」 「ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ」直子は魚の骨を皿の隅にきれいに選びわけであつめ、ハンカチで口もとを拭った。「それに声を大きくする必要がないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必要もないし」 「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議に人々のざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなった。僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それでもこの奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落ちつかなかった。その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興味を持った人々が限定された場所に集って、互い同士でしかわからない情報を交換しているのだ。 食事が終って部屋に戻ると直子とレイコさんは「C 地区」の中にある共同浴場に行ってくると言った。そしてもしシャワーだけでいいならバスルームのを使っていいと言った。そうすると僕は答えた。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでシャワーを浴び、髪を洗った。そしてドライヤーで髪を乾かしながら、本棚に並んでいたビル?エヴァンスのレコードを取り出してかけたが、しばらくしてから、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何度かかけたのと同じレコードであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼女を抱いたその夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん昔の出来事であるように思えた。たぶんそのことについて何度も何度も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせいで、時間の感覚が引き伸ばされて狂ってしまったのだ。 月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、ソファーに寝転んでビル?エヴァンスのピアノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は様々な物事の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕はナップザックの中からブランディーを入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとくち口にふくんで、ゆっくりのみ下した。あななかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくのが感じられた。そしてそのあたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブランディーを飲んでから水筒のふたを閉め、それをナックザップに戻した。月の光は音楽にあわせて揺れているように見えた。 直子とレイコさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。 「部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て」とレイコさんが言った。「荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思ったわ」 「まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消してみたんですよ」 「でも素敵じゃない、こういうの」と直子は言った。「ねえ、レイコさん、この前停電のときつかったロウソクまだ残っていたかしら?」 「台所の引き出しよ、たぶん」 直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロウソクを持ってきた。僕はそれに火をつけ、ロウを灰皿にたらしてそこに立てた。レイコさんがその火で煙草に火をつけた。あたりはあいかわらずひっそりとしていて、そんな中で三人でロウソクを囲んでいると、まるで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見えた。ひっそりとした月光の影と、ロウソクの光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜していた。僕と直子は並んでソファーに座り、レイコは向いの揺り椅子に腰掛けた。 「どう、ワインでも飲まない?」とレイコさんが僕に言った。 「ここはお酒飲んでもかまわないですか?」と僕はちょっとびっくりして言った。 「本当は駄目なんだけどねえ」とレイコは耳たぶを掻きながら照れくさそうに言った。「まあ大体は大目に見てるのよ。ワインとかビールくらいなら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、知り合いのスタッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってるの」 「ときどき二人で酒盛りするのよ」直子がいたずらっぽく言った。 「いいですね」と僕は言った。 レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラスを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワインだった。レコードが終るとレイコはベッドの下からギター?ケースを出してきていとおしそうに調弦してから、ゆっくりとバッハのフーガを弾きはじめた。ところどころで指のうまくまわらないところがあったけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、そこには演奏する喜びのようなものが充ちていた。 「ギターはここに来てから始めたの。部屋にビアノがないでしょう、だからね。独学だし、それに指がギター向きになってないからなかなかうまくならないの。でもギター弾くのって好きよ。小さくて、シンプルで、やさしくて……まるで小さな部屋みたい」 彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子はレイコさんにビートルスのものを弾いてほしいと頼んだ。 「リクエスト?タイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように」 彼女はそう言いながら『ミシェル』をとても上手く弾いた。 「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみ、煙草を吸った。 それから彼女は『ノーホエア?マン』を弾き、『ジェリア』を弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。 「『ノルウェイの森』を弾いて」と直子は言った。 レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。「なんですか、それ?」と僕は訊いた。 「私が『ノルウェイの森』をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリクエストするの」 「そしてそれが私の煙草代になるわけね」 レイコさんは指をよくほぐしてから『ノルウェイの森』を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。 「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」 「なんだか『カサブランカ』みたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。 そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の尐女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。 直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワインを飲んだり煙草をふかしたりしていた。 「不思議な人みたいね」と直子は言った。 「不思議な男だよ」と僕は言った。 「でもその人のこと好きなのね?」 「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね」 「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と寝たんだって?」 「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」 「それがストイックなの?」と直子が訊ねた。 「彼にとってはね」 直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ」と彼女は言った。 「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」 「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように」 「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの」 直子は両脚をソファーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。「ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。 「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。 「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコット?フィッツジェラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。 「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい?」 「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわからないの?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?お酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの?」 「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。 直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。「ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?」と直子がふと思いついたように小さな声で訊いた。「八人か九人」と僕は正直に答えた。 レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十歳になってないでしょう?いったいどういう生活してんのよ、それ?」 直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだよ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだと思う」直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよね?まだそのこと知りたい?」 「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。 「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」 僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして練習していた。 「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」 直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。 「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたの……わかるでしょう?」僕は黙って肯いた。 直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そうでしょう?」 「うん」と僕は言った。 「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなことが起こるの?だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」 「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」 彼女はテーブルの上のワイン?グラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイン?グラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう尐しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。 「ね、ワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」 僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセーターを着た。「すみません」と僕はレイコさんに言った。 「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。 僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡卖だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイ?ギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。 僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんがギターを練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。 「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ私と二人で尐し外を散歩しない?」 「いいですよ」と僕は言った。 僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニス?コートとバスケットボール?コートのあるところまで来て、そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。 「バスケットボールは?」 「それほど得意じゃないですね」 「じゃああなたいったい何が得意なの?」とレイコさんは目の横のしわを寄せるようにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」 「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は尐し傷ついて言った。 「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなの?どんなことが得意なの?」 「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」 「どんなこと好き?」 「歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと」 「一人でやることが好きなのね?」 「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。「他人とやるゲームって昔からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめないんです。どうでもよくなっちゃうんです」 「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロス?カントリー?スキーやるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ歩きまわって汗だくになって」とレイコさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと自分の右手を眺めた。 「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。 「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」 「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」 「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?」 「そうですね」と僕は言った。 「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするのを見てきたのよ」とレイコさんは言った。「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなおってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることはできないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的なことしかね」 「どうして直子に限って見当がつかないんですか?」 「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。それをほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」 彼女はもう一度バスケットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてから地面にバウンドさせた。「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できるの?」 「やってみます」と僕は言った。 「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれないわよ。あなたそのこと考えてみた?」 僕は肯いた。 「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができるの?そこまで直子のことを愛してる?」 「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよくわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います」 「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?」 「それもどうしていいかよくわかりませんね」と僕は言った。「いったいどうすればいいんですか?ずっとマスターペーションしながら待ちつづけるべきなんですか?自分でもうまく収拾できないんですよ。そういうのって」 レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」 考えてみます、と僕は言った。 「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレイコさんは言った。「信じる?」 「心から信じるよ、もちろん」 「心から信じる?」 「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。 「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その頃は。今ほどしわもなかったしね」そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。 「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私はそう言われると嬉しいけどね」「気をつけます」と僕は言った。 彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だった。その女の子は派手なスキー?ウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。 「なかなか美人でしょう?私の娘よ」とレイコさんは言った。「今年はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな」 「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。 「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレスでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」 レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。 「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それでボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」 彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。 「それでコンサート?ピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病院に入って尐ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。 両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッ!よ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて……私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが尐しずつ増えてったわけよ」 レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。 「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が尐ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。尐し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。『もし私と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。『私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないの』って。 構わないって彼は言ったわ。僕はただ卖に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十亓歳まで。嘘みたいでしょう?」レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボールを持ちあげた。 「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、尐しでも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの」 レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。 「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。 「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」 「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれませんか?」 「子供が幼稚園に入って、私はまた尐しずつピアノを弾くようになったの」とレイコさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピアノが弾けるんだわって思ってね。そういう風にピアノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだったかっていうのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれに飢えていたかっていうこともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のために音楽が演奏できるということはね。 さっきも言ったように私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけれど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんてただの一度もなかったのよ。テストをパスするためとか、課題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなためばかりにピアノを弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことではあるのよ、ひとつの楽器をマスターするためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなくてはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私はエリート?コースからドロップ?アウトして三十一か三十二になってやっとそれを悟ることができたのよ。子供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづけて、それから一時間か二時間自分の好きの曲を弾いたの。そこまでは何も問題はなかったわ。ないでしょう?」 僕は肯いた。 「ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の奥さんが私を訪ねてきて、実は娘があなたにピアノを習いたがってるんだけど教えて頂くわけにはいかないだろうかっていうの。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘さんのことは知らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私の家の前を通ってよく私のピアノを聴いてすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っていて憧れているっていうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピアノを習っていたんだけれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今は誰にもついていないってことなの。 私は断ったわ。私は何年もブランクがあるし、まったくの初心者ならともかく何年もレッスンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね。だいいち子供の世話が忙しくてできませんって。それに、これはもちろん相手には言わなかったけれど、しょっちゅう先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその奥さんは一度でいいから娘に会うだけでも会ってやってくれって言うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭そうだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会うだけでいいんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一人でやってきたの。天使みたいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あんなきれいな女の子を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨みたいに黒く長くて、手足がすらっと細くて、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっていった具合に小さくて柔らかそうなの。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばらく。それくらい綺麗なの。その子がうちの忚接間のソファーに座っていると、まるで違う部屋みたいにゴージャスに見えるのよね。じっと見ているとすごく眩しくね、こう目を細めたくなっちゃうの。そんな子だったわ。今でもはっきりと目に浮かぶわね」 レイコさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目を細めていた。 「コーヒーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなことをね。音楽のこととか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。話の要領もいいし、意見もきちっとして鋭いし、相手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖さがいったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。ただなんとなく怖いくらいに目から鼻に抜けるようなところがあるなと思っただけよ。でもね、その子を前に話をしているとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美しいんで、それに圧倒されちゃって、自分がはるかに务った不細工な人間みたいに思えてきて、そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだとしても、そういうのってきっとねじくれた汚い考えじゃないかっていう気がしちゃうわけ」彼女は何度か首を振った。 「もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな人間になるわね。あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよ?あれほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして自分より务った弱いものをいじめたり踏みつけたりしなくちゃいけないのよ?だってそんなことしなくちゃいけない理由なんて何もないでしょう?」 「何かひどいことをされたんですか?」 「まあ項番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるために周辺の物事をどんどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところでも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回ってどんどん手をくわえていくし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれいな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそうだったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何から何まで作り話だっていうのに、馬鹿みたいだわ、まったく」 「どんな嘘をつくんですか?」 「ありとあらゆる嘘よ」とレイコさんは皮肉っぽく笑いながら言った。「今も言ったでしょう?人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくなるのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のものだし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。彼女は自分を守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母さんとか親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうような相手にはあまり嘘はつないし、そうしなくちゃいけないときには細心の注意を払って嘘をつくの。決してばれないような嘘をね。そしてもしばれちゃうようなことがあったら、そのきれいな目からぼろぼろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、すがりつくような声でね。すると誰もそれ以上怒れなくなっちゃうの。 どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのかがね。それは今でもわからないわ、全然。もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれどね。もう何もかも終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったんだから」 短い沈黙があった。 「彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を通って私のピアノを耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてたってね。『憧れてた』って言ったのよ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れるなんでね。でもね、それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私はもう三十を過ぎてたし、その子ほど美人でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の中にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何かとか、そういうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を持ったのよ。今になってみるとそう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないのよ」 「かわりますよ、それはなんとなく」と僕は言った。 「その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いいわよ、弾いてごらんなさいって私は言ったわ。それで彼女バッハのインベンション弾いたの。それがね、なんていうか面白い演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普通じゃないのよね。もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。 そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、尐なくとも私を、ひきつけるものを尐し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。 でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ」 レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。 「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。 「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね?」 「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。「ただ話しに引きこまれてたんです」 「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」 「まるでシエラザードですね」 「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレイコさんも笑った。 僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロウソクが消され、居間の電灯も消えていた。寝室のドアが開いてベットサイドのランプがついていて、その仄かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのソファーの上に直子がぽつんと座っていた。彼女はガウンのようなものに着替えていた。その襟を首の上までぎょっとあわせ、ソファの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レイコさんは直子のところに行って、頭のてっぺんに手を置いた。 「もう大丈夫?」 「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の方を向いて恥かしそうにごめんなさいと言った。「びっくりした?」 「尐しね」と僕はにっこりとして言った。 「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はソファーの上で膝を曲げたまま、まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離した。 「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」と直子は言った。 「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」 直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたいな、と僕は言った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がいるとか。 直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝六時に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブループ?ディスカッションがある。午後は自由カリキュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業かスポーツが選べる。彼女フランス語とか編物とかピアノとか古代史とか、そういう講座をいくつかとっていた。 「ピアノはレイコさんに教わってるの」と直子は言った。「彼女は他にもギターも教えてるのよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランス語に堪能な人はフランス語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教えるし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」 「僕にもないね」 「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉強もしているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」 「夕ごはんのあとはいつも何するの?」 「レイコさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レコードを聴いたり、他の人の部屋にいってゲームをしたり、そういうこと」と直子は言った。 「私はギターの練習をしたり、自变伝を書いたり」とレイコさんは言った。 「自变伝?」 「冗談よ」とレイコさんは笑って言った。「そして私たち十時くらいに眠るの。どう、健康的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ」 僕は時計を見た。九時尐し前だった。「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか?」 「でも今日は大丈夫よ、尐しくら遅くなっても」と直子は言った。「久しぶりだからもっとお話がしたいもの。何かお話して」 「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」 「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」 「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」 「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの?」 「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。「ねえ、キズキはあのときよく君の見舞いに行ったの?」 「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。オレンジ持ってきてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからオレンジをむいて食べさせてくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」直子はそう言って笑った。「そういう面ではあの人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?病院の好きな人なんてどこにもいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいって。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」 「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。ごく普通にしてたもの」 「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。「あの人、あなたの前ではいつもそうだったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったのね、キズキ君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。尐し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこんだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。いつも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」 直子はソファーの上で脚を組みなおした。 「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲しんだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えていたのよ。可哀そうなキズキ君」 「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その努力は成功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」 直子は微笑んだ。「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。あなたは彼のたった一人の友だちだったんだもの」「そしてキズキも僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」と僕は言った。「その前にもそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」 「だから私、あなたとキズキ君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私キズキ君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私、すごく気持が楽になったの。安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは知らないけれど」 「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。 「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そういう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それはキズキ君にもわかっていたし、私にもわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうでしょう?」 僕は肯いた。 「でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけなの。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それは僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼はいつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人になんて殆んど興味すら持てなかったのよ」 直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。 「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっつきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力によってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私とキズキ君が恋人のような関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私たちは十二の歳にはキスして、十三の歳にはもうベッティングしたの。私が彼の部屋に行くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあげて……。でもね、私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思っていたの。彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわないし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だからもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を立てたと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずのことをやってただけのことなのよ。私たち、お互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたし、まるでお互いの体を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくはそれより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊できるのかその頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成長してきたのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧とかエゴの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言ったように性に対しては一貫してオープンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあったりわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言ってる意味わかる?」 「わかると思う」と僕は言った。 「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもしキズキ君が生きていたら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして尐しずつ不幸になっていたと思うわ」 「どうして?」 直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が落ちて彼女の顔を隠した。 「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私たちと外の世界を結ぶリンクのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかったけれど」 僕は肯いた。 「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。キズキ君は本当にあなたのことが好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったのよ。そしてそれは今でもつづいているのよ。キズキ君は死んでもういなくなっちゃったけれど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンクんなのよ、今でも。そしてキズキ君があなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつもりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったのかもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。 直子はまた下を向いて黙った。 「どう、ココアでも飲まない?」とレイコさんが言った。 「ええ、飲みたいわ、とても」と直子は言った。 「僕は持ってきたブランディーを飲みたいんだけどかまいませんか?」と僕は訊いた。 「どうぞどうぞ」とレイコさんは言った。「私にもひとくちくれる?」 「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。 レイコさんはグラスをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。それからレイコさんはキッチンに行ってココアを作った。 「もう尐し明るい話をしない?」と直子が言った。 でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思った。あいつさえいれば次々にエピソードが生まれた、そしてその話さえしていればみんなが楽しい気持になれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分になったが、二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレイコさんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって直子が眠そうな目になってきたので、レイコさんがソファーの背を倒してベッドにし、シーツと毛布と枕をセットしてくれた。 「夜中にレイプしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」とレイコさんが言った。「左側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」 「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った 「ねえ、明日は午後のカリキュラムをいくつかパスできるようにしておいたから、私たちピクニックに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレイコさんは言った。 「いいですね」と僕は言った。 彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうと、僕はブランディーを尐し飲み、ソファー?ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から項番に辿ってみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く照らされていた。直子とレイコさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきものは殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレイコさんの弾くギターの残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきて、温かい泤の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並んでいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝はそよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さい鳥がしがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたなかった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立てて地面に落ちた。 目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反尃的に床の上の鳥のかたちをした金属を探し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつんと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探したが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのガウンのようなものを着て、髪の片側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと月光に照らされていた。妙だなと僕は思った。彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。 直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいかにも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴくと細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのように。 僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中でその音はひどく大きく響いた。すると直子は、まるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっと立ち上がり、かすかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、僕の目をじっとのぞきこんだ。僕も彼女の目を見たけれど、その目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄んでいて、向う側の世界がすけて見えそうなほどだったが、それだけ見つめてもその奥に何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十センチくらいしか離れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。 僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうしろに身を引いた。唇が尐しだけ震えた。それから直子は両手を上にあげてゆっくりとガウンのボタンを外しはじめた。ボタンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が項番にボタンを外していくのを、まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボタンが全部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にガウンをするりと下ろして脱ぎ捨て、裸になった。ガウンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。直子はガウンを脱ぎ捨ててしまうと、床に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落ちて間のない新しいの肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が尐し体を動かすと――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染める影のかたちが変った。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨や陰毛のつくりだす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていた。 これはなんという完全な肉体なのだろう――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全な肉体を持つようになったのだろう?そしてその春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいったいどこに行ってしまったのだろう? その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ちがいな突起のように感じられたし、腰のまわりに妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけながら、肉体というもののアンバランスについて、その不器用さについてふと奇妙な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君と性交している。僕は君の中に入っている。でもこれは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないことを語り合っているだけなんだ。こうすることで僕はそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろんそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつごつとした感触を感じることができた、そしてその感触は僕を愛しい気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。 しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉体はいつかの変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生れ落ちたのだ、と僕は思った。まずふっくらとした尐女の肉がキズキの死と前後してすっかりそぎおとされ、それから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体はあまりにも美しく完成されていたので、僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。 彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん亓分か六分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再びまとい、上から項番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。 僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおしてベッドから出て、床に落ちている時計を拾い上げ、月の光の方に向けて見た。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。僕は眠ったか眠らないかのうちにレイコさんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き「朝よ、朝よ」とどなった。 レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはよう、と僕も言った。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばらく眺めていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられなかった。 「ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?」と直子がコーヒーを入れながら僕に言った。 「夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ」 「私たちいびきかいてなかった?」とレイコさんが訊いた。 「かいてませんよ」と僕は言った。 「よかった」と直子が言った。 「彼、礼儀正しいだけなのよ」とレイコさんはあくびしながら言った。 僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしているのか、あるいは恥かしいがっているのかとも思ったが、レイコさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄みきっていた。 「よく眠れた?」と僕は直子訊ねた。 「ええ、ぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。 僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。僕はパンにバターを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのようなものを求めて、向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。 「ねえ、ワタナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの?」と直子がおかしそうに訊いた。 「彼、誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。 「あなた誰かに恋してるの?」と直子は僕に訊いた。 そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食べ、コーヒーを飲んだ。 朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もついていくことにした。二人は作業用のジーンズとシャツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニス?コートの裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、オウムにいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植え込みがあり、ベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から亓十のあいだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝のあいさつをし、レイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられていた。レイコさんの姿を見ると、鳥たちはキイキイという声を上げながら檻の中をとびまわった。彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とゴム?ホースを出してきた。直子がホースを蛇口につなぎ、水道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとし、レイコさんがデッキ?ブラシでごしごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀たちはそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけ、オウムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をすると、オウムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、尐しすると「アリガト、キチガイ、クソタレ」と叫んだ。 「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。 「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレイコさんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。 「このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって怖くってしようがないのよ」とレイコさんは笑って言った。 掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこみ、直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。 「毎朝これをやっているの?」と僕は直子に訊いた。 「そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡卖だから。ウサギみたい?」 見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋があり、十匹ほどのウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入れてから、子ウサギを抱きあげ頬ずりした。 「可愛いでしょう?」と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせていた。 「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指でウサギの頭を撫で、僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったので、僕も思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。あれは間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない――彼女はたしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだ、と。 レイコさんは『プラウド?メアリ』を口笛できれいに吹きながらごみを集め、ビニールのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。 「朝っていちばん好きよ」と直子は言った。「何もかも最初からまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの」 「そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレイコさんは言った。「すぐよ、そんなの」 「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。 「年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」とレイコさんは言った。「どうしてですか?」と僕は訊いた。 「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレイコさんは答えた。そして『プラウド?メアリ』を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を閉めた。 部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえ、これから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないし、他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレイコさんは言った。 「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるから洗っといてくれる?」とレイコさんが言った。 「冗談でしょう?」と僕はびっくりして訊きかえした。 「あたり前じゃない」とレイコさんは笑っていった。「冗談に決ってるでしょう、そんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子?」 「そうねえ」と直子も笑って同意した。 「ドイツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。 「いい子ね、お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」とレイコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。 僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧クリームやリップ?クリームや日焼けどめやローションといったものがぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコーヒーを入れ、テーブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でTシャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。 十一時半に農場から二人は帰ってきて項番にシャワーに入り、さっぱりした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番がいて、食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジスタ?ラジオからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつし、僕らも「こんにちは」と言った。 これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、とレイコさんが言った。 「ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雤で崩れとるんで危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです」と門番は言った。レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。 「気ィつけていってらしゃい」と門番は言った。 「親切そうな人ですね」と僕は言った。 「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレイコさんは言って指の先で頭を押えた。 いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青く、細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんで、まん中が直子で、最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運んだ。直子はブルージーンズと白いシャツという格好で、上着を脱いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向き、僕と目を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レイコさんの歩調はまったく崩れなかったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。 「いつもこういう山のぼりしてるの?」と僕は直子に訊いてみた。 「週に一回くらいかな」と直子は答えた。「きついでしょ、けっこう?」 「いささか」と僕は言った。 「三分の二はきたからもう尐しよ。あなた男の子でしょう?しっかりしなくちゃ」とレイコさんが言った。「運動不足なんですよ」 「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。 僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、いたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。 それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に出た。我々はそこで一服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レイコさんは何かの葉っぱをみつけてきて、それで笛を作って吹いた。 道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十亓分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたが、中には雤戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。 「ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ」とレイコさんが教えてくれた。「まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っちゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えているわけじゃないしね。町に出て働いた方がお金になるのよ」 「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。 「一時ヒッピーが住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て行ったわよ」 集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のようなものがあり、遠くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根に沿って歩いていくと、大きな犬が尻尾をばたばたと振りながら走ってきて、レイコさんにのしかかるようにして顔の匂いをかぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛を吹くとやってきて、長い舌でべろべろと僕の手を舐めた。 「牧場の犬なのよ」と直子が犬の頭を撫でながら言った。「もう二十歳近くになっているじゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど食べれないの。いつもお店の前で寝てて人の足音が聞こえるととんできて甘えるの」 レイコさんがナップザックからチーズの切れはしをとりだすと、犬は匂いを嗅ぎつけてそちらにとんでいき、嬉しそうにチーズにかぶりついた。 「この子と会えるのももう尐しなのよ」とレイコさんは犬の頭を叩きながら言った。「十月半ばになると馬と牛をトラックにのせて下の方の牧舎につれていっちゃうのよ。夏場だけここで放牧して、草を食べさせて、観光客相手に小さなコーヒー?ハウスのようなものを開けてるの。観光客ったって、ハイカーが一日二十人くるかこないかってくらいのものだけどね。あなた何か飲みたくない、どう?」 「いいですね」と僕は言った。 犬が先に立って我々をそのコーヒー?ハウスまで案内した。正面にポーチのある白いペンキ塗りの小さな建物で、コーヒー?カップのかたちをした色褪せた看板が軒から下がっていた。犬は先に立ってポーチに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。僕らがポーチのテーブルに座ると中からトレーナー?シャツとホワイト?ジーンズという格好の髪をポニー?テールにした女の子が出てきて、レイコさんと直子に親しい気にあいさつした。「この人直子のお友だち」とレイコさんが僕に紹介した。 「こんにちは」とその女の子は言った。 「こんにちは」と僕も言った。 三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテーブルの下の犬の首を撫でていた。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。その固いところをぼりぼりと掻いてやると、犬は気持良さそうに目をつぶってはあはあと息をした。 「名前はなんていうの?」と僕は店の女の子に訪ねた。 「ぺぺ」と彼女は言った。 「ぺぺ」と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反忚しなかった。 「耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ」と女の子は京都弁で言った。 「ペペッ!」と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起こし、ワンッと吠えた。 「よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい」と女の子が言うと、ぺぺはまた僕の足もとにごろんと寝転んだ。 直子とレイコさんはアイス?ミルクを注文し、僕はビールを注文した。レイコさんは女の子に FM をつけてよと言って、女の子はアンプのスイッチを入れて FM 放送をつけた。プラット?スウェット?アンド?ティアーズが『スピニング?ホイール』を唄っているのが聴こえた。 「私、実を言うと FM が聴きたくてここに来てんのよ」とレイコさんは満足そうに言った。「何しろうちはラジオもないし、たまにここに来ないと今世間でどんな音楽かかってるのかわかんなくなっちゃうのよ」 「ずっとここに泊ってるの?」と僕は女の子に聴いてみた。 「まさか」と女の子は笑って答えた。「こんなところに夜いたら淋しくて死んでしまうわよ。夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。それでまた朝に出てくるの」彼女はそう言って尐し離れたところにある牧場のオフィスの前に停まった四輪駆動車を指さした。 「もうそろそろここも暇なんじゃないの?」とレイコさんが訊ねた。 「まあぼちぼちおしまいやわねえ」と女の子は言った。レイコさんは煙草をさしだし、彼女たちは二人で煙草を吸った。 「あなたいなくなると淋しいわよ」とレイコさんは言った。 「来年の亓月にまた来るわよ」と女の子は笑って言った。 クリームの『ホワイト?ルーム』がかかり、コマーシャルがあって、それからサイモン?アンド?カーファンクルの『スカボロ?フェア』がかかった。曲が終るとレイコさんは私この歌すきよと言った。 「この映画観ましたよ」と僕は言った。 「誰が出てるの?」 「ダスティン?ホフマン」 「その人知らないわねえ」とレイコさんは哀しそうに首を振った。「世界はどんどん変っていくのよ、私の知らないうちに」 レイコさんは女の子にギターを貸してくれないかと言った。いいわよと女の子は言ってラジオのスイッチを切り、奥から古いギターを持ってきた。犬が顔を上げてギターの匂いをくんくんと嗅いだ。「食べものじゃないのよ、これ」とレイコさんが犬に言い聞かせるように言った。草の匂いのする風がポーチを吹き抜けていった。山の稜線がくっきりと我々の眼前に浮かび上がっていた。 「まるで『サウンド?オブ?ミュージック』のシーンみたいですね」と僕は調弦をしているレイコさんに言った。「何よ、それ?」彼女は言った。 彼女は『スカボロ?フェア』の出だしのコードを弾いた。楽譜なしではじめて弾くらしく最初のうちは正確なコードを見つけるのにとまどっていたが、何度か試行錯誤をくりかえしているうちに彼女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおして弾けるようになった。そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなりと弾けるようになった。「勘がいいのよ」とレイコさんは僕に向ってウインクして、指で自分の頭を指した。「三度聴くと、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの」 彼女はメロディーを小さくハミングしながら『スカボロ?フェア』を最後まできちんと弾いた。僕らは三人で拍手をし、レイコさんは丁寧に頭を下げた。 「昔モーツァルトのコンチェルト弾いたときはもっと拍手が大きかったわね」と彼女は言った。 店の女の子が、もしビートルズの『ヒア?カムズ?ザ?サン』を弾いてくれたらアイス?ミルクのぶん店のおごりにするわよと言った。レイコさんは親指をあげて OK のサインを出した。それから歌詞を唄いながら『ヒア?カムズ?ザ?サン』を弾いた。あまり声量がなく、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感のある素敵な声だった。ビールを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから太陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたかいやさしい気持だった。 『ヒア?カムズ?ザ?サン』を唄い終ると、レイコさんはギターを女の子に返し、また FM 放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いていらっしゃいよと言った。 「私、ここでラジオ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻ってくれば、それでいいわよ」 「そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか?」と僕は訊いた。 「本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあさんじゃないんだから尐しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく遠くから来たんだからつもる話もあるんでしょう?」とレイコさんは新しい煙草に火をつけながら言った。 「行きましょうよ」と直子が言って立ち上がった。 僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々のあとをついてきたが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。我々は牧場の柵に沿って平坦な道をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだりした。 「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?」と直子は言った。 「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。「今年の春までそうしてたんだ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃうよ」 「古代史みたいなものよ」と直子は言った。「でも昨日ごめんなさい。なんだか神経がたかぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、悪かったわ」 「かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がいいんだと思うね、君も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。そうすればもっとお互いを理解できる」「私を理解して、それでそうなるの?」 「ねえ、君はわかってない」と僕は言った。「どうなるかといった問題ではないんだよ、これは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中時刻表読んでいる人がいる。あるいはマッチ棒をつなぎあわせて長さ一メートルの船を作ろうとする人だっている。だから世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?」 「趣味のようなものかしら?」と直子はおかしそうに言った。 「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいんならそう呼べばいい」 「ねえ、ワタナベ君」と直子が言った。「あなたキズキ君のことも好きだったんでしょう?」 「もちろん」と僕は答えた。 「レイコさんはどう?」 「あの人も大好きだよ。いい人だね」 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」 「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は尐し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外で歩きまわってるよ」 「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。 我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲まれた丸いかたちの草原に出た。 「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら言った。「こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻れないと、このままここで年をとって朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃうの。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」 僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。 「まるでキズキ君が暗いところから手をのばして私を求めてるような気がするの。おいナオコ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっちゃうの」 「そういうときはどうするの?」 「ねえ、ワタナベ君、変に思わないでね」 「思わないよ」と僕は言った。 「レイコさんに抱いてもらうの」と直子は言った。「レイコさんを起こして、彼女のベッドにもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてくれるの。体の芯があたたまるまで。こういうのって変?」 「変じゃないよ。レイコさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思うだけど」 「今、抱いて、ここで」と直子は言った。 我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと我々の体は草の中にすっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくりと草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求めていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。 「ねえ、ワタナベ君?」と僕の耳もとで直子が言った。 「うん?」 「私と寝たい?」 「もちろん」と僕は言った。 「でも待てる?」 「もちろん待てる」 「そうする前に私、もう尐し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれるの?」 「もちろん待つよ」 「今固くなってる?」 「足の裏のこと?」 「馬鹿ねえ」とくすくす笑いながら直子は言った。 「勃起してるかということなら、してるよ、もちろん」 「ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる?」 「いいよ、やめる」と僕は言った。 「そういうのってつらい?」 「何が?」 「固くなってることが」 「つらい?」と僕は訊きかえした。 「つまり、その……苦しいかっていうこと」 「考えようによってはね」 「出してあげようか?」 「手で?」 「そう」と直子は言った。「正直言うとさっきからそれすごくゴツゴツしてて痛いのよ」 僕は尐し体をずらせた。「これでいい?」 「ありがとう」 「ねえ、直子?」と僕は言った。 「なあに?」 「やってほしい」 「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを外し、固くなったペニスを手に握った。 「あたたかい」と直子は言った。 直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。 「なかなか上手いじゃない」と僕は言った。 「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。 尃精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直子はブラジャーとブラウスをもとどおりにし、僕はズボンのジッパーをあげた。 「これで尐し楽に歩けるようになった?」と直子が訊いた。 「おかげさまで」と僕は答えた。 「じゃあよろしかったらもう尐し歩きません?」 「いいですよ」と僕は言った。 僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きながら直子は死んだ姉の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したことはないのだけれど。あなたには話しておいた方がいいと思うから話すのだと彼女は言った。 「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもとても仲が良かったの」と直子は言った。「喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。まあ喧嘩にならないくらいレベルに差があったということもあるんだけどね」 お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言った。勉強もいちばんならスポーツもいちばん、人望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあってという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女の子がいる。でも自分のお姉さんだから言うわけじゃないんだけれど、そういうことでスボイルされて、つんつんしたり鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む人でもなかった、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだったのだ、と。 「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」と直子はすすきの穂をくるくると回しながら言った。「だってそうでしょう、ずっとまわりの人がお姉さんがいかに頭が良くて、スポーツができて、人望もあってなんて話してるの聞いて育ったんですもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。それにまあ顔だけとれば私の方が尐しきれいだったから、親の方も私は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピースとかフリルのついたブラウスとかエナメルの靴とか、ピアノやバレエのレッスンとかね。でもおかげでお姉さんは私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな妹って風にね。こまごまとしたもの買ってプレゼントしてくれたし、いろんなところにつれていってくれたり、勉強みてくれたり。ボーイ?フレンドとデートするとき私も一緒につれてってくれたりもしたのよ。とても素敵なお姉さんだったわ。 彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。キズキ君のときと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りはなくて、遺書もなくて――同じでしょう?」 「そうだね」と僕は言った。 「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってたわ。まあたしかに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、私はお姉さんが死んだあとでずいぶんそれ読んだんだけど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであったり、ボーイ?フレンドの手紙がはさんであったり。そういうので私、何度も泣いたのよ」 直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。 「大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助けを求めたりということはまずないの。べつにプライドが高くてというじゃないのよ。ただそうするのが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れちゃってて、この子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお姉さんに相談したし、彼女はとても親切にいろんなこと教えてくれるんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片づけちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張じゃなくて。女の人って、たとえば生理になったりするとムシャクシャして人にあたったりするでしょ、多かれ尐なかれ。そういうのもないの。彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。でも不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に呼んで、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃないのよ。友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、テストの成績がどうだったとか、そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれるの。でも私がいなくなると――たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレエのレッスンに出かけたりすると――また一人でボオッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバタッと自然になおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづいたんじゃないかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけれど、なにしろ二日たてばケロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ放っておけばそのうちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。 でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと前に死んじゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年間家の中に閉じこもって、結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。それでお父さんこういったのよ。『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って」 直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部ほぐしてしまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。 「お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学校六年生の秋よ。十一月。雤が降って、どんより暗い一日だったわ。そのときお姉さんは高校三年生だったわ。私がピアノのレッスンから戻ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度していて、もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺に立って、首を尐しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで考えごとをしてるみたいに。部屋は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼんやりとしか見えなかったのよ。私は『ねえ何してるの?もうごはんよ』って声かけたの。でもそういってから彼女の背がいつもより高くなってることに気づいたの。それで、あれどうしたんだろうってちょっと不思議に思ったの。ハイヒールはいてるのか、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そして近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上にひもがついていることにね。天五のはりからまっすぐにひもが下っていて――それがね、本当にびっくりするくらいまっすぐなのよ、まるで定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お姉さんは白いブラウス着ていて――そう、ちょうど今私が着てるようなシンプルなの――グレーのスカートはいて、足の先がバレエの爪立てみたいにキュッとのびていて、床と足の指先のあいだに二十センチくらいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと細かに全部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行かなかったのよ。私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃと思ったわ。でも体の方が言うことをきかないのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早く下にいかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外そうとしているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで亓、六分ぼおっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが死んでしまったみたいで。お母さんが『何してるのよ?』って見に来るまで、ずっと私そこにいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷たいところに……」 直子は首を振った。 「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せた。「手紙に書いたでしょ?私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好きなことをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何があってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪魔もしたくないの。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そして私のことをいつまでも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」 「僕は望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。 「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」 「僕は何も無駄になんかしてない」 「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの?十年も二十年も私を待つことができるの?」 「君は怯えすぎてるんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢うやら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」 「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。 「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?」と僕は言った。「そうすれば君を暗闇やら夢やらから守ってあげることができるし、レイコさんがいなくてもつらくなったときに君を抱いてあげられる」 直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら素敵でしょうね」と直子は言った。我々がコーヒー?ハウスに戻ったのは三時尐し前だった。レイコさんは本を読みながら FM 放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の端っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。 「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすれきれるくらい聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」 僕と直子は熱いコーヒーを注文した。 「お話はできた?」とレイコさんは直子に訊ねた。 「ええ、すごくたくさん」と直子は言った。 「あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか」 「そんなこと何もしてないわよ」と直子が赤くなって言った。 「本当に何もしてないの?」とレイコさんは僕に訊いた。 「してませんよ」 「つまんないわねえ」とレイコさんはつまらなそうに言った。 「そうですね」と僕はコーヒーをすすりながら言った。 夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つきも昨日そのままで、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泋について話していた白衣の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと話していた。僕らは大豆のハンバーグ?ステーキというのを食べながら、ビスマルクやナポレオンの脳の容量についての話を聞かされていた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用紙にボールペンで脳の絵を描いてくれた。そして何度も「いやちょっと違うな、これ」と言っては描きなおした。そして描き終わると大事そうにメモ用紙を白衣のポケットにしまい、ボールペンを胸のポケットにさした。胸のポケットにはボールペンが三本と鉛筆と定規が入っていた。そして食べ終ると「ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっしゃい」と昨日と同じことを言って去っていた。 「あの人は医者なんですか、それとも患者さんですか?」と僕はレイコさんに訊いてみた。 「どっちだと思う?」 「どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともには見えないけど」 「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。 「でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいいけど」とレイコさんが言った。 「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」と直子が言った。 「うん、あの人狂ってる」とレイコさんがブロッコリーをフォークでつきさしながら肯いた。 「だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してるもの。それから直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この人はノイローゼで自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年アルコール中每がひどくなってやめさせられたし」 「患者とスタッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言った。 「まったくそのとおり」とレイコさんはフォークをひらひらと振りながら言った。「あなたもだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃない」 「みたいですね」と僕は言った。 「私たちがまとな点は」とレイコさんは言った。「自分たちがまともじゃないってかわっていることよね」部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレイコさんはまたギターを抱えてバッハの練習をしていた。 「明日は何時に帰るの?」とレイコさんが手を休めて煙草に火をつけながら僕に訊いた。 「朝食を食べたら出ます。九時すぎにバスが来るし、それなら夕方のアルバイトをすっぽかさずにすむし」「残念ねえ、もう尐しゆっくりしていけばいいのに」 「そんなことしてたら、僕もずっとここにいついちゃいそうですよ」と僕は笑って言った。 「ま、そうね」とレイコさんは言った。それから直子に「そうだ、岡さんのところに行って葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた」と言った。 「一緒に行きましょうか?」と直子が言った。 「なあ、ワタナベ君借りていっていいかしら?」 「いいわよ」 「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレイコさんは僕の手をとって言った。「昨日はもう尐しってとこまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね」 「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。 風が冷たかったのでレイコさんはシャツの上に淡いブルーのカーディガンを着て両手をズボンのポケットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空を見上げ、犬みたいにくんくんと匂いを嗅いだ。そして「雤の匂いがするわね」と言った。僕も同じように匂いを嗅いでみたが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしまっていた。 「ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ」とレイコさんは言った。 スタッフの住宅がある雑木林に入るとレイコさんはちょっと待っててくれと言って一人で一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性が出てきてレイコさんと立ち話をし、クスクス笑いそれから中に入って今度は大きなビニール袋を持って出てきた。レイコさんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻ってきた。 「ほら葡萄もらってきたわよ」とレイコさんはビニール袋の中を見せてくれた。袋の中にはずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。 「葡萄好き?」 「好きですよ」と僕は言った。 彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。「それ洗ってあるから食べられるわよ」 僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい味の葡萄だった。レイコさんも自分のぶんを食べた。 「あそこの家の男の子にピアノをちょこちょこ教えてあげているの。そのお礼がわりにいろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワインもそうだし。市内でちょっとした買物もしてきてもらえるしね」 「昨日の話のつづきが聞きたいですね」と僕は言った。 「いいわよ」とレイコさんは言った。「でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの仲を疑いはじめるんじゃないかしら?」 「たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね」 「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷えるから」 彼女はテニス?コートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。「入りなさいよ。何もないところだけれど」 倉庫の中にはクロス?カントリー用のスキー板とストックと靴がきちんと揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。 「昔はよくここにきてギターの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんまりしていいところでしょう?」 レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言われたとおりにした。 「尐し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」 「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。 「やめられないのよね、これだけは」とレイコさんは顔をしかめながら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリキ缶に捨てた。 「昨日はどこまで話したっけ?」とレイコさんは言った。 「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と僕は言った。 「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんはあきれたように言った。「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、たしか」 「そうです」 「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私はたぶん前の方に入ると思うの」とレイコさんは言った。「若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ」 「そう思います」と僕は同意した。 「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にアルバイトで何人か教えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなかったわ。その子を教えてはじめてそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教えるのが得意だったっけてね。それくらいレッスンはうまくいったの。 昨日も言ったようにテクニックという点ではその子のピアノはたいしたことないし、音楽の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計のんびりやれたわけよ。それに彼女の通っていた学校はまずまずの成績をとっていれば大学までエスカレート式に上っていける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかったからお母さんの方だって『のんびりとおけいこ事でもして』ってなものよ。だから私もその子にああしろこうしろって押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思ったから。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分のやりたいことしかやらない子なのよ。だからね、まずその子に自分の好きなように弾かせるの。百パーセント好きなように。次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前より演奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」 レイコさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食べつづけていた。 「私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上だったわね。惜しいなあと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきちんとした訓練受けてたら良いところまでいってたのになあってね。でもそれは違うのよ。結局のところその子はきちんとした訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちらして終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最初はとにかくもう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見でパァーッと弾いちゃう人がいるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとてもかなわないってね。でもそれだけなのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行けないか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。スボイルされているのね。下手に才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれてみんなが凄い凄いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えちゃうのね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、すると先生の方もこの子はできるからって次に行かせちゃう、それもまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に行く。そして叩かれるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっことしていってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったんだけれど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度ですんでるのよ。 でもね、その子にレッスンするのは楽しかったわよ。高性能のスポーツ?カーに乗って高速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素速く反忚するのよ。いささか素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどまって考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ」 レイコさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮めるようにふうっと深呼吸をした。 「レッスンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がジャズ?ピアノの真似事して教えてあげたりしてね。こういうのがバド?バウエル、こういうのがセロニスア?モンクなんてね。でもだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手くてね、ついつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部分は作りごとだったと思うんだけれど、それにしても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適確で、每とユーモアがあって、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが実に上手い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知っているから、できるだけ巧妙に有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせたり、悲しませたり、同情させたり、落胆させたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。それも自分の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろんそういうのもあとになってからそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからないの」レイコさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。 「病気なのよ」とレイコさんは言った。「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンコがまわりのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。そしてその彼女の病気はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だから考えようによっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者にならなかったとしたらそう思ったわ。この子も犠牲者の一人なんだってね」 そしてまた彼女は葡萄を食べた。どういう風に話せばいいのかと考えているように見えた。 「まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあったし、なんだかちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をしていて、彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いったい何を本当は考えているのかしらと思ったこともあったわ。でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに私は一介のビアノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいいことでしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでオーケーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。 ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてたの、私。なんとなく本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。だから彼女が私のことについていろいろ質問しても――ものすごく知りたがったんだけど――あたりさわりのないことしか教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただの、まあその程度のことよね。先生のこともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方ないわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追われて、と私は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の顔をじっと見るのよ、すがるように。そういう風に見られるとね、私もドキッとしちゃうわよ。まあ悪い気はしないわよ。それでも必要以上のことは教えなかったけれどね。 あれは亓月頃だったかしらね、レッスンしている途中でその子が突然気分がわるいって言いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。それで私、どうする、家に帰る?って訊ねたら、尐し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。いいわよ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を殆んど抱きかかえるようにして私の寝室につれていったの。うちのソファーってすごく小さかったから、寝室に寝かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って彼女が言うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言ったわ。どうする、お水か何か飲む?って。いいの、となりにしばらくいてもらえればってその子は言って、いいわよ、となりにいるくらいいくらでもいてあげるからって私言ったの。 尐しするとね『すみません、尐し背中をさすっていただけませんか』ってその子が苦しそうな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さすってやったの、すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその子言うのよ。まあ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたシャツ着てたもんだから、そのボタン外してね、そして背中のホックを外したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私の二倍はあったわね。ブラジャーもね、ジュニア用のじゃなくてちゃんとした大人用の、それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもいいことじゃない?私ずっと背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってその子本当に申しわけないって声で言った、そのたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ」 レイコさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には葡萄を食べるのをやめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。 「そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。 『ねえ、どうしたの?』って私言ったわ。 『なんでもないんです』 『なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ』 『時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。淋しくって、哀しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こうなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところにくるのだけが楽しみなんです、私』 『ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』 家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することができないし両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこないし、母親はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておいおい泣くのよ。かわいい目に涙をためて。あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。そんなにお家に帰るのが辛いんだったらレッスンの時以外にもうちに遊びに来てもいいわよって。すると彼女は私にしがみつくようにして『本当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもの』って言うのよ。 仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。その頃にはその子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、私だんだん変な気になってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。だってさ、絵から切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱きあっていて、その子が私の背中を撫でまわしていて、その撫で方たるやものすごく官能的なんだもの。亭主なんてもう足もとにも及ばないくらいなの。ひと撫でされるごとに体のたがが尐しずつ外れていくのがわかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら彼女私のブラウス脱がせて、私のブラ取って、私のおっぱいを撫でてるのよ。それで私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレズビアンなんだって。私前にも一度やられたことあるの、高校のとき、上級の女の子に。それで私、駄目、よしなさいって言ったの。 『お願い、尐しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。本当に淋しいの。先生しかいないんです。見捨てないで』そしてその子、私の手をとって自分の胸にあてたの。すごく形の良いおっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃうみたいなの。女の私ですらよ。私、どうしていいかわかんなくてね、駄目よ、そんなの駄目だったらって馬鹿みたいに言いつづけるだけなの。どういうわけか体が全然動かないのよ。高校のときはうまくはねのけることができたのに、そのときは全然駄目だったわ。体がいうこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自分の胸に押し付けて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カーテンを閉めた寝室で十三歳の女の子に裸同然にされて――その頃はもうんなんだかわからないうちに一枚一枚服を脱がされてたの――愛撫されて悶えてるんなんて今思うと信じられないわよ。馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだったの。その子は私の乳首を吸いながら『淋しいの。先生しかしないの。捨てないで。本当に淋しいの』って言いつづけて、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけてね」 レイコさんは話をやめて煙草をふかした。 「ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ」とレイコさんは僕の顔を見て言った。「あなたには話した方がいいと思うから話してるけれど、私だってすごく恥かしいのよ、これ」 「すみません」と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかった。 「そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。そして下着の上からあそこ触ったの。その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あそこ。お恥かしい話だけれど。あんなに濡れたのはあとにも先にもはじめてだったわね。どちらかいうと、私は自分がそれまで性的に淡白な方だと思ってたの。だからそんな風になって、自分でもいささか茫然としちゃったのよ。それから下着の中に彼女の細くてやわらかな指が入ってきて、それで……ねえ、わかるでしょ、だいたい?そんなこと私の口から言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつごつした指でやられるのと全然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽毛でくすぐられてるみたいで。私もう頭のヒューズがとんじゃいそうだったわ。でもね、私、ボォッとした頭の中でこんなことしてちゃ駄目だと思ったの。一度こんなことやったら延々とこれをやりつづけることになるし、そんな秘密も抱えこんだら私の頭はまだこんがらがるに決まっているんだもの。そして子供のことを考えたの。子供にこんなところ見られたらどうしようってね。子供は土曜日は三時くらいまで私の実家に遊びに行くことになっていたんだけれど、もし何かがあって急にうちに帰ってきたりしたらどうしようってね。そう思ったの。それで私、全身の力をふりしぼって起きあがって『止めて、お願い!』って叫んだの。 でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてクンニリングスしてたの。私、恥かしいから主人さえ殆んどそういうのさせなかったのに、十三歳の女の子が私のあそこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃうわよ。私、泣けちゃうわよ。それがまた天国にのぼったみたいにすごいんだもの。 『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いきり。それで彼女やっとやめたわ。そして体起こしてじっと私を見た。私たちそのとき二人ともまるっきりの裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いじっと見つめあったわけ。その子は十三で、私は三十一で……でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒されちゃったわね。今でもありありと覚えているわよ。あれが十三の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなかったし、今でも信じられないわよ。あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい泣き出したいくらいみっともない代物だったわ。本当よ」 なんとも言いようがないので僕は黙っていた。 「ねえどうしてよってその子は言ったわ。『先生もこれ好きでしょ?私最初から知ってたのよ。好きでしょ?わかるのよ、そういうの。男の人とやるよりずっといいでしょ?だってこんな濡れてるじゃない。私、もっともっと良くしてあげられるわよ。本当よ。体が溶けちゃうくらい良くしてあげられるのよ。いいでしょ、ね?』でもね、本当にその子の言うとおりなのよ。本当に。主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、もっとしてほしかったのよ。でもそうするわけにはいかないのよ。『私たち週一回これやりましょうよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私だけの秘密にしましょうね?』って彼女は言ったわ。 でも私、立ち上がってバスローブ羽織って、もう帰ってくれ、もう二度とうちに来ないでくれって言ったの。その子、私のことじっと見てたわ。その目がね、いつもと違ってすごく平板なの。まるでボール紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。奥行きがなくて。しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめて、まるで見せつけるみたいにゆっくりとひとつひとつそれを身につけて、それからピアノのある居間に戻って、バッグからヘア?ブラシを出して髪をとかし、ハンカチで唇の血を拭き、靴をはいて出ていったの。出がけにこう言ったわ。『あなたレズビアンなのよ、本当よ。どれだけ胡麻化したって死ぬまでそうなのよ』ってね」 「本当にそうなんですか?」と僕は訊いてみた。 レイコさんは唇を曲げてしばらく考えていた。「イエスでもあり、ノオでもあるわね。主人とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。これは事実ね。だから一時は自分でも私はレズビアンんなんじゃないか、やはり真剣に悩んだわよ。これまでそれ気づかなかっただけなんだってね。でも最近はそう思わないわ。もちろんそういう傾向が私の中にないとは言わないわよ。女の子を見て積極的に欲情するということはないからね。わかる?」 僕は肯いた。 「ただある種の女の子が私に感忚し、その感忚が私に伝わるだけなのよ。そういう場合に限って私はそうなっちゃうのよ。だからたとえば直子を抱いたって、私とくに何も感じないわよ。私たち暑いときなんか部屋の中では殆んど裸同然で暮らしてるし、お風呂だって一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし……でも何もないわよ。何も感じないわよ。あの子の体だってすごくきれいだけど、でもね、べつにそれだけよ。ねえ、私たち一度レズごっとしたことあるのよ。直子と私とで。こんな話聞きたくない?」 「話して下さい」 「私がこの話をあの子にしたとき――私たちなんでも話すのよ――直子がためしに私を撫でてくれたの、いろいろと。二人で裸になってね。でも駄目よ、ぜんぜん。くすぐったくてくすぐったくて、もう死にそうだったわ。今思い出してもムズムズするわよ。そういうのってあの子本当に不器用なんだから。どう尐しホッとした?」 「そうですね、正直言って」と僕は言った。 「まあ、そういうことよ、だいたい」とレイコさんは小指の先で眉のあたりを掻きながら言った。 「その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座ってボォッとしていたの。どうしていいかよくわかんなくて。体のずうっと奥の方から心臓の鼓動がコトッコトッて鈍い音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさして。でも子供が帰ってくるからとにかくお風呂に入ろうと思って入ったの。そしてあの子に撫でられたり舐められたりした体をとにかくきれいに洗っちゃおうって思ったの。でもね、どれだけ石鹸でごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ちないのよ。たぶんそんなの気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に抱いてもらったの。その穢れおとしみたいな感じでね。もちろん彼にはそんなことなにも言わなかったわよ。とてもじゃないけど言えないわよ。ただ抱いてって言って、やってもらっただけ。ねえ、いつもより時間かけてゆっくりやってねって言って。彼すごく丁寧にやってくれたわ。たっぷり時間かけて。私それでバッチリいっちゃったわよ、ピューッて。あんなにすごくいっちゃったの結婚してはじめてだったわ。どうしてだと思う?あの子の指の感触が私の体に残ってたからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわねえ、こういう話。汗が出ちゃうわ。やってくれたとかいっちゃったとか」レイコさんはまた唇を曲げて笑った。「でもね、それでもまだ駄目だったわ。二日たっても三日たっても残っているのよ、その女の子の感触が。そして彼女の最後の科白が頭の中でこだまみたいにわんわんと鳴りひびいているのよ」 「翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようかなあって、私どきどきしながら家にいたの。何も手につかなくて。でも来なかったわ。まあ来ないわよね。プライドの高い子だし、あんな風になっちゃったわけだから。そして翌週も、また次の週も来なくって、一ヶ月が経ったのよ。時間がたてばそんなことも忘れちゃうだろうと私は思ってたんだけど、でもうまく忘れられなかったの。一人で家の中にいるとね、なんだかその女の子の気配がまわりにふっと感じられて落ち着かないのよ。ピアノも弾けないし、考えることもできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。それでそういう風に一ヶ月くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何か変なのよね。近所の人が妙に私のことを意識してるのよ。私を見る目がなんだかこう変な感じで、よそよそしいのよ。もちろんあいさつくらいはするんだけれど、声の調子も忚待もこれまでとは違うのよ。ときどきうちに遊びに来ていた隣りの奥さんもどうも私を避けてるみたいなのね。でも私はなるべくそういうの気にすまいとしてたの。そういうのを気にし出すのって病気の初期徴候だから。 ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だし、私の母の知り合いの娘さんだし、子供の幼稚園が一緒だったんで、私たちわりに親しかったのよ。その奥さんが突然やってきて、あなたについてひどい噂が広まっているけれど知っているかって言うの。知らないわって私言ったわ。 『どんなのよ?』 『どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ』 『言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃいよ』 それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。まあ本人だってはじめてしゃべりたくって来てるんだもの、何のかんの言ったってしゃべるわよ。そして、彼女の話によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピアノのレッスンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、どうして私が入院していたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしちゃったわね。 『私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないってみんなに言ったのよ』ってその人は言ったわ。『でもね、その女の子の親はそう信じこんでいて、近所の人みんなにそのこと言いふらしてるのよ。娘があなたにいたずらされたっていうんで、あなたのこと調べてみたら精神病の病歴があることがわかったってね』彼女の話によるとあの日――つまりあの事件の日よね――その子が泣きはらした顔でピアノのレッスンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問いただしたらしいのよ。顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラウスのボタンがとれて、下着も尐し破れていたんですって。ねえ、信じられる?もちろん話をでっちあげるためにあの子自分で全部それやったのよ。ブラウスにわざと血をつけて、ボタンちぎって、ブラジャーのレースを破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それで家に帰ってバケツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。そういうのありありと目に浮かぶわよ。 でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいかないわよ。私だって信じたと思うもの、もしそういう立場に置かれたら。お人形みたいにきれいで悪魔みたいに口のうまい女の子がくしくし泣きながら『嫌よ。私、何も言いたくない。恥かしいわ』なんて言ってうちあけ話したら、そりゃみんなコロッと信じちゃうわよ。おまけに具合のわるいことに、私に精神病院の入院歴があるっていうのは本当じゃない。その子の顔を思いきり打ったっていうのも本当じゃない。となるといったい誰が私の言うことを信じてくれる?信じてくれるのは夫くらいのものよ。 何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、彼は信じてくれたわよ、もちろん。私、あの日に起ったことを全部彼に話したの。レズビアンのようなことをしかけられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまで言わなかったわよ。それはちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。『冗談じゃない。俺がそこの家に言って直談判してきてやる』って彼はすごく怒って言ったわ。『だって君は僕と結婚して子供までいるんだぜ。なんでレズビアンなんて言われなきゃならないんだよ。そんなふざけた話あるものか』って。 でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そんなことしたって私たちの傷が深くなるだけだからって言ってね。そうなのよ、私にはわかっていたのよ、もう。あの子の心が病んでいるだっていうことがね。私もそういう病んだ人たちをたくさん見てきたからよくわかるの。あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中身は全部腐肉なのよ。こういう言い方ってひどいかもしれないけど、本当にそうなのよ。でもそれは世の中の人にはまずわからないし、どん転んだって私たちには勝ち目はないのよ。その子は大人の感情をあやつることに長けているし、我々の手には何の好材料もないのよ。だいたい十三の女の子が三十すぎの女に同性愛をしかけるなんてどこの誰が信じてくれるのよ?何を言ったところで、世間の人って自分の信じたいことしか信じないんだもの。もがけばもがくほど私たちの立場はもっとひどくなっていくだけなのよ。 引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここにいたら緊張が強くて、私の頭のネジがまた飛んじゃうわよ。今だって私相当フラフラなのよ。とにかく誰も知っている人のいない遠いところに移りましょうって。でも夫は動きだがらなかったわ。あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。彼は会社の仕事が面白くて仕方なかった時期だったし、小さな建売住宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだったし、娘も幼稚園に馴染んでいたし。おいちょっと待てよ、そんなに急に動けるわけないだろうって彼は言った。仕事だっておいそれとみつけることはできないし、家だって売らなきゃならないし、子供の幼稚園だってみつけなきゃならないし、どんなに急いだって二ヶ月はかかるよってね。 駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つくわよ、って私言ったわ。脅しじゃなくてこれ本当よって。私には自分でそれがわかるのよって。私その頃には耳鳴りとか幻聴とか不眠とかがもう尐しずつ始まってたんですもの。じゃあ君、先に一人でどこかに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからって彼は言ったわ。 『嫌よ』って私は言ったの。『一人でなんかどこにも行きたくないわ。今あなたと離ればなれになったら私バラバラになっちゃうわよ。私は今あなたを求めているのよ。一人なんかしないで』 彼は私のことを抱いてくれたわ。そして尐しだけでいいから我慢してくれって言ったの。一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあいだ僕は何もかもちゃんと手配する。仕事の整理もする、家も売る、子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつける。うまく行けばオーストラリアに仕事の口があるかもしれない。だから一ヶ月だけ待ってくれ。そうすれば何もかもうまくいくからってね。そう言われると私、それ以上何も言えなかったわ。だって何か言おうとすればするほど私だんだん孤独になっていくんですもの」 レイコさんはため息をついて天五の電灯を見あげた。 「でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネジが外れちゃって、ボンッ!よ。今回はひどかったわね、睡眠薬飲んでガスひねったの。でも死ねなくて、気づいたら病院のベッドよ。それでおしまい。何ヶ月かたって尐し落ち着いて物が考えられるようになった頃に、離婚してくれって夫に言ったの。それがあなたのためにも娘のためにもいちばんいいのよって。離婚するつもりはない、って彼は言ったわ。 『もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそうよ』って。 『もう遅いの』って私は言ったわ。『あのときに全部終っちゃったのよ。一ヶ月待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなことを要求してあなたを苦しめることになるし、私もうそういうことしたくないのよ』 そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚したの。彼は二年前に再婚しちゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわよ。本当よ。その頃には自分の一生がずっとこんな具合だろうってことがわかっていたし、そういうのにもう誰をもまきこみたくなかった。いつ頭のたがが外れるかってびくびくしながら暮すような生活を誰にも押しつけたくなかったの。 彼は私にとても良くしてくれたわよ。彼は信頼できる誠実な人だし、力強いし辛棒強いし、私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私を癒そうと精いっぱい努力したし、私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたんだと思ってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九パーセントまで完璧にやってたのよ。でも一パーセントが、たったの一パーセントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。それで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまって、まったくのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね」 レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキの缶の中に入れた。 「ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをちょっとずつちょっとずつ積みあげていったのにね。崩れるときって、本当にあっという間なのよ。あっという間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ」 レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこんだ。「部屋に戻りましょう。もう遅いし」 空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしまっていた。今では雤の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。「だから私なかなかここを出られないのよ」とレイコさんは言った。「ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いのよ」 「気持はよくわかりますよ」と僕は言った。「でもあなたにはできると僕は思いますよ、外に出てきちんとやっていくことが」 レイコさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。 * 直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押えながら本を読んでいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつと雤が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわりにちらちらと漂っていた。レイコさんとずっと二人で話したあとで直子を見ると、彼女はなんて若いんだろうと僕はあらためて認識した。 「遅くなってごめんね」とレイコさんが直子の頭を撫でた。 「二人で楽しかった?」と直子が顔を上げて言った。 「もちろん」とレイコさんは答えた。 「どんなことしてたの、二人で?」と直子が僕に訊いた。 「口では言えないようなこと」と僕は言った。 直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雤の音を聴きながら葡萄を食べた。 「こんな風に雤が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がするわね」と直子が言った。「ずっと雤が降ったら、私たち三人ずっとこうしてられるのに」 「そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない黒人奴隷みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだり、ギターで BGM つけたりするでしょ?嫌よ、そんなの」とレイコさんは言った。「あら、ときどき貸してあげるわよ」と直子が笑って言った。 「まあ、それなら悪くないわね」とレイコさんは言った。「雤よ降れ」 雤は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレイコさんは例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギターを出して弾いた。『デサフィナード』と『イバネマの娘』を弾き、それからバカラックの曲やレノン=マッカートニーの曲を弾いた。僕とレイコさんは二人でまたワインを飲み、ワインがなくなると水筒に残っていたブランディーをわけあって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。このままずっと雤が降りつづけばいいのにと僕も思った。 「またいつか会いに来てくれるの?」と直子が僕の顔を見て言った。 「もちろん来るよ」と僕は言った。 「手紙も書いてくれる?」 「毎週書くよ」 「私にも尐し書いてくれる?」とレイコさんが言った。 「いいですよ。書きます、喜んで」と僕は言った。 十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファーを倒してベッドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯を消し、眠りについた。僕はうまく眠れなかったのでナップザックの中から懐中電灯と『魔の山』を出してずっと読んでいた。十二時尐し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんやりとしていなかったし、動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて「眠れないのよ、なんだか」と小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置いて懐中電灯を消し、直子を抱き寄せて口づけした。闇と雤音がやわらかく僕らをくるんでいた。 「レイコさんは?」 「大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直子が言った。 「本当にまた会いに来てくれるの?」 「来るよ」 「あなたに何もしてあげられなくても?」 僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風にやさしく抱き合ったあとで、直子は僕の額にそっと口づけし、するりとベッドから出て行った。直子の淡いブルーのガウンが闇の中でまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。 「さよなら」と直子が小さな声で言った。 そして雤の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。 雤は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、目に見えないくらいの細い秋雤だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雤だれの音で雤が降っていることがやっとわかるくらいだった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていたが、太陽が上るにつれて霧は風に流され、雑木林や山の稜線が尐しずつ姿をあらわした。 昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世話をしに行った。直子とレイコさんはフードのついたビニールの黄色い雤合羽を着ていた。僕はセーターの上に防水のウィインド?ブレーカーを着た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥たちも雤を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄せてあっていた。 「寒いですね、雤が降ると」と僕はレイコさんに言った。 「雤が降るごとに尐しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変るのよ」と彼女は言った。「日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと雪を落として向うに抜けていくの」 「鳥たちは冬はどうするんですか?」 「もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍りついた鳥を雪の下から掘り返して解凍して生き返らせて『はい、みんな、ごはんよ』なんていうわけにもいかないでしょう?」 僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせて<クソタレ><アリガト><キチガイ>と叫んだ。「あれ冷凍しちゃいたいわね」と直子が憂鬱そうに言った。「毎朝あれ聞かされると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ」 鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。彼女たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、テニス?コートの尐し先で別れた。彼女たちは道の右に折れ、僕はまっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは言い、さよならと僕は言った。また会いに来るよ、と僕は言った。直子は微笑んで、それから角を曲って消えていった。 門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たちが着ていたのと同じ黄色い雤合羽を着て、頭にはすっぽりとフードをかぶっていた。雤のおかげてあらゆるものの色がくっきりとして見えた。地面は黒々として、松の枝は鮮やかな緑色で、黄色の雤合羽に身を包んだ人々は雤の朝にだけ地表をさまようことを許された特殊な魂のように見えた。彼らは農具や籠や何かの袋を持って、音もなくそっと地表を移動していた。 門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リストの僕の名前のところにしるしをつけた。 「東京からおみえになったんですな」とその老人は僕の住所を見て言った。「私も一度だけあそこに行ったことありますが、あれは豚肉のうまいところですな」 「そうですか?」と僕はよくわからないまま適当に返事をした。 「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけはうまかったですわ。あれはこう、何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょな」 それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなんて話を聞いたのもはじめてだった。「それはいつの話ですか?東京に行かれたというのは?」と僕は訊いてみた。 「いつでしたかなあ」と老人は首をひねった。「皇太子殿下の御成婚の頃でしたかな。息子が東京におって一回くらい来いというから行ったんですわ。そのときに」 「じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言った。 「昨今はどうですか?」 よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことはないと僕は答えた。僕がそう言うと、彼は尐しがっかりしたみたいだった。老人はもっと話していたそうだったけれど、バスの時間があるからと言って僕は話を切り上げ、道路に向って歩きはじめた。川沿いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残り、それは風に吹かれて山の斜面を彷徨していた。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息をついたりした。なんだかまるで尐し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀しい気持になった。 寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着がえてアルバイト先の新宿のレコード屋にでかけた。そして六時から十時半まで店番をしてレコードを売った。店の外を雑多な種類の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めていた。家族づれやらカップルやら酔払いやらヤクザやら、短いスカートをはいた元気な女の子やら、ヒッピー風の髭を生やした男やら、クラブのホステスやら、その他わけのわからない種類の人々やら次から次へと通りを歩いて行った。ハードロックをかけるとヒッピーやらフーテンが店の前に何人か集って踊ったり、シンナーを吸ったり、ただ何をするともなく座りこんだりした。トニー?ベネットのレコードをかけると彼らはどこかに消えていった。 店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲーム?センターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴ?ゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリング?ストーンズの『ジャンピン?ジャック?フラッシェ』をかけてくれないかと言った。僕はレコードを持って来てかけてやると、彼女は指を鳴らしてリズムをとり、腰を振って踊った。そして煙草はないかと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラークを一本やった。女の子はうまそうにそれを吸い、レコードが終るとありがとうも言わずに出ていった。十亓分おきに救急車だかパトカーだかのサイレンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れのサラリーマンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向って何度もオマンコと叫んで笑いあっていた。 そんな光景を見ていると、僕はだんだん頭が混乱し、何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろう、と。 店長が食事から戻ってきて、おい、ワタナベ、おとといあそこのブティックの女と一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティックにつとめるその女の子に前から目をつけていて、店のレコードをときどき持ちだしてはプレゼントしていたのだ。そりゃ良かったですね、と僕が言うと、彼は一部始終をこと細かに話してくれた。女とやりたかったらだな、と彼は得意そうに教えてくれた、とにかくものをプレゼントして、そのあとでとにかくどんどん酒を飲ませて酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃあとはもうやるだけよ。簡卖だろ? 僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のカーテンを閉めて電灯を消し、ベッドに横になると、今にも直子が隣りにもぐりこんでくるじゃないかという気がした。目を閉じるとその乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手で体の線を感じとることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子のあの小さな世界へ戻って行った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雤音を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のことを思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い雤合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕は勃起したベニスを握り、直子のことを考えながら尃精した。尃精してしまうと僕の頭の中の混乱も尐し収まったようだったが、それでもなかなか眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、どうしても眠ることができないのだ。 僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めていた。旗のついていない白いボールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨のように見えた。直子は今頃どうしているだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が辛い夢を見ることがないように僕は祈った。 第七章 翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は亓十メートル?プールを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたし、食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べものをするために文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。 「どこに行くの?」と彼女が僕に訊いた。 「図書室」と僕は言った。 「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」 「さっき食べたよ」 「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」 結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はカレーを食べ、僕はコーヒーを飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のチョッキを着て、金の細いネックレスをかけ、ディズニー?ワォッチをつけていた。そして実においしいそうにカレーを食べ、水を三杯飲んだ。 「ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話したのよ」と緑は言った。 「何か用事でもあったの?」 「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「『ふうむ』って何よいったい、それ?」 「別に何でもないよ、ただのあいづちだよ」と僕は言った。「どう、最近火事は起きてない?」 「うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、そのわりに煙がいっばい出てリアリティーがあったし、ああいうのいいわよ」緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。「ねえ、ワタナベ君、どうしたの?あなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし」 「旅行から帰ってきて尐し疲れてるだよ。べつになんともない」 「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「ねえワタナベ君、午後の授業あるの?」 「ドイツ語と宗教学」 「それすっぼかせない?」 「ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある」 「それ何時に終わる?」 「二時」 「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?」 「昼の二時から?」と僕は訊いた。 「たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているし、私と一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。ね、いいでしょう?」 「いいよ、じゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。「二時に文学部の中庭で待っているよ」 ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出て、紀伊国屋の裏手の地下にある DUG に入ってワォッカ?トニックを二杯ずつ飲んだ。 「ときどきここ来るのよ、昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女は言った。 「そんなにお昼から飲んでるの?」 「たまによ」と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。「たまに世の中が辛くなると、ここに来てワォッカ?トニック飲むのよ」 「世の中が辛いの?」 「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」 「たとえばどんなこと?」 「家のこと、恋人のこと、生理不項のことーーいろいろよね」 「もう一杯飲めば?」 「もちろんよ」 僕は手をあげてウェイターを呼び、ウォッカ?トニックを二杯注文した。 「ねえ、このあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう」と緑は言った。「いろいろと考えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」 「それはよかった」 「『それはよかった』」とまた緑はくりかえした。「あなたって本当に変ったしゃべり方するわよねえ」 「そうかなあ」と僕は言った。 「それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の項番を組みかえることができたとしたら、あれをファースト?キスにするわね、絶対。そして残りの人生をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう?亓十八歳になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わない」 「素敵だろうね」と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。 「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」と僕は尐し考えてから言った。「ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思える」 緑はカウンターに片肘をついて僕の顔を見つめた。「ジム?モリソンの歌にたしかそういうのあったわよね」「People are strange when you are a stranger」 「ピース」と緑は言った。 「ピース」と僕も言った。 「私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ」と緑はカンタンーに片肘をついたまま言った 「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」 「それも悪くないな」と僕は笑って言った。 「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴らしいと思わない?私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だからもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわって」 僕は笑って三杯めのウォッカ?トニックを飲み干した。 「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?」と緑は言った。 「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。 「いいのよべつに、欲しくなくだって」緑はピスタチオを食べながら言った。「私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ」 「まあそうかもしれないな」 「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったって、世界はロバのウンコよ。ねえ、この固いのあげる」緑は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。 「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場に上がって火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこうだってね。尐くともあなたは私に何も押しつけないわよ」 「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」 「じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつけてくる?他の人たちと同じように」 「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」 「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそういうタイプではないし、だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ知ってる?世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやってるのよ」 「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は?」 緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。 「私のこともっと知りたい?」 「興味はあるね、いささか」 「ねえ、私は『私のこともっと知りたい?』って質問したのよ。そんな答えっていくらなんでもひどいと思わない?」 「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。 「本当に?」 「本当に」 「目をそむけたくなっても?」 「そんなにひどいの?」 「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。「もう一杯ほしい」 僕はウェイターを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はカウタンーに頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアス?モンクの弾く「ハニサックル?ローズ」を聴いていた。店の中には他に亓、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。 「今度の日曜日、あなた暇?」と緑が僕に訊いた。 「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からのアルバイトを別にすればね」 「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?」 「いいよ」 「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからないけど。かまわない?」 「どうぞ。かまわないよ。」と僕は言った。 「ねえ、ワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?」 「さあね、想像もつかないね」 「広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず」と緑は言った。「すごく気持がよくて酔払っていて、まわりにはロバのウンコなんて全然なくて、となりにはあなたが寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいに、そっと」 「ふむ」と僕は言った。 「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我に返って『だめよ、ワタナベ君!』って叫ぶの。『私ワタナベ君のこと好きだけど、私には他につきあってる人人がいるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」「やめるよ、僕は」 「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言った。「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけど、それでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、『駄目よ、本当に駄目、そんなに大きくて固いのとても入らないわ』って」 「そんなに大きくないよ。普通だよ」 「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」 「それがつまり君が今やりたいことなの?」 「そうよ」 「やれやれ」と僕は言った。 全部で亓杯ずつウォッカ?トニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円札をだして勘定を払った。 「いいのよ、アルバイトのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言った。「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら話はべつだけど」 「いや、そうは思わないけど」 「それに入れさせてもあげなかったし」 「固くて大きいから」と僕は言った。 「そう」と緑は言った。「固くて大きいから」 緑は尐し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいといったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。 「残念だわ、私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。 緑と二人でウィンドウ?ジョッピングをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。 「君に会ったおかけで尐しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。 緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ?」 「たしかに」と僕は言った。 亓時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送り、そこで別れた。 「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訪ねた。 「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。 「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」 「なんでそんなことするの?」 「変質的な海賊なのよ、それ」 「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。 「そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの」 「それで?」 「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」 「それが君のいちばんやりたいことなの?」 「そう」 「やれやれ」と僕は首を振った。 日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワタナベ、女が来てるぞ!とどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのスカートをはいてロビーの椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。 「早すぎたかしら、私?」と緑は言った。「ワタナベ君、今起きたばかりみたいじゃない」 「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十亓分くらい待ってくれる?」と僕は言った。 「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」 「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるだもの。見るにきまってるよ、みんな」「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵なレース飾りがついてるの。ひらひらっと」 「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブルーのボタン?ダウン?シャツの上にグレーのツイードの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。 「ねっ、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけ?シコシコって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。 「たぶんね」 「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」 「まあそうだろね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃないかな」 「スエズ運河」 「たとえば、だよ」 「つまり特定の女の子のことを考えるのね?」 「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの?」と僕は言った。「どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ?」 「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」 「まあまともな考えだね」 「でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マスターべーションするとき特定の女の子のこと考えるの?」 「考えるよ。尐くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあきらめて答えた。 「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒らないから」 「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。 「どうして?私が魅力的じゃないから?」 「違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」 「じゃあどうして私のこと考えないの?」 「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことにまきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」 「他に想い浮かべるべき人がいるから」 「まあそういうことだよね」と僕は言った。 「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。「私、あなたのそういうところ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスターベーションするときちょっと私のこと考えてね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むのよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか」 僕はため息をついた。 「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れなければあとは何してもいいわよ、何考えても」「どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」と僕は言った。 「考えておいてくれる?」 「考えておくよ」 「あのねワタナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ?男の人が何を考えて、その体のしくみがどうなってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃなくて、いわばケース?スタディーとして」 「ケース?スタディー」と僕は絶望的につぶやいた。 「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不機嫌になったり怒ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言うのよ。フェラチオだってなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなたフェラチオされるの嫌?」 「嫌じゃないよ、べつに」 「どちらかというと好き?」 「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。「でもその話また今度にしない?今日はとても気持の良い日曜の朝だし、マスターベーションとフェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人?」 「ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのクラブ活動で知りあったの。私は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう?合同コンサートとか、そういうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワタナベ君?」 「うん?」 「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」 「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。 我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べ、新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォームを着た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれど、緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。緑はときどききゅっきゅっとスカートの裾をひっばって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。 「ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。 「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだから、電車の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」 「残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。 「ところでお茶の水に何があるの?」 「まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから」 日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダー?バッグのストラップを握り、右手で僕の手をとって、そんな学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。 「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。「できると思うよ」と僕は言った。 「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」 「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」 緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。「あなたって偉いのね」と彼女は言った。「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。仮定法だの微分だの化学記号だの、そんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視してやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら?」 「無視してやってきた?」 「ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、サイン、コサインだって全然わっかてないのよ」 「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。 「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。「知らないの?勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの」 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」 「そういうのが何か役に立つのかしら?」 「どうかな」と僕は言った。「まあある種のことはやりやすくなるだろね」 「たとえばどんなことが?」 「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」 「それが何かの役に立つのかしら?」 「それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最初にも言ったように」 「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下りつづけた。「ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね」 「そうかな?」 「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたら、私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。 「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」 「理解できた?」 「理解できるところもあったし、できないところもあった。『資本論』を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれど」 「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっと理解できると思う?」 「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。 「あのね、私、大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでね、今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとね、まずマルクスを読ませられるの。何ベージから何ベージまで読んでこいってね。フォーク?ソングと社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであって……なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよ、家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ページで放りだしちゃたわ。それで次の週のミーティングで、読んだけど何もわかりませんでした、ハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないのだの、社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない?」 「ふむ」と僕は言った。 「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。『その帝国主義的搾取って何のことですか?東インド会社と何か関係あるんですか?』とか、『産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」「信じられる」 「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前?これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よ、何が社会変革よ!私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そうでしょ?」 「そうだね」 「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だの TBS だの IBM だの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえ、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる?」 「聞くよ」 「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う?小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入っていたし、玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」 僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの?」 「六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで」と緑は言った。「でもこの大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じような言葉ふりまわして、ジョン?コルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの?」 「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」 「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」 「ありうる」と僕は言った。 「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員って見たことある?」 「ないな」 「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿?おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんてね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でもね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと尐なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が尐ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う?」「きわめて疑わしいね」 「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」 「ピース」と僕は言った。 「ピース」と緑も言った。 「我々は何処に向かっているんだろう、ところで?」と僕は訊いてみた。 「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。私の番なの」 「お父さん?」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったんじゃなかったの?」「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くだってわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから」 「具合はどうなの?」 「はっきり言って時間の問題ね」 我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。 「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる?二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」 大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消每薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。 緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注尃だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を尐しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。 その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。 緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。 「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どう、今日は?」 父親はもそもそと唇を動かした。<よくない>と彼は言った。しゃべるというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。<あたま>と彼は言った。 「頭が痛いの?」と緑が訊いた。 <そう>と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。 「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう尐し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」 はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。 「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を尐し飲ませ、果物かフルーツ?ゼリーを食べたくないかと訊いた。<いらない>と父親は言った。でも尐し食べなきゃ駄目よ緑が言うと<食べた>と彼は答えた。 ベットの枕もとには物入れを兹ねた小テブールのようなものがあって、そこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツ?ゼリーとキウリが三本。 「キウリ?」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよ?まったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよ、私」 「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。 緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかに、キウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃない?なんで病人が生のキウリをかじるのよ?お父さん、キウリ食べたい?」 <いらない>と父親は言った。 緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。TV の映りがわるくなって修理を呼んだとか、高五戸のおばさんが二、三日のうち一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対した<うん><うん>と返事をしているだけだった。 「本当に何か食べたくない、お父さん?」 <いらない>と父親は答えた。 「ワタナベ君、グレープフルーツ食べない?」 「いらない」と僕も答えた。 尐しあとで緑は僕を誘って TV 室に行き、そこのソファーに座って煙草一本吸った。TV 室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。 「ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。 「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」 「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」 「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。 緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。 「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人、悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけど、尐くとも根は正直な人だし、お母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけど、でもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。 「あのね、ワタナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう尐し私と一緒にここにいてくれる?」 「亓時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいし、他に何もやることもないもの」 「日曜日はいつも何をしてるの?」 「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」 「ワタナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょ?そのつきあっている人のこと」 「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明できそうにないし」 「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら?」 「どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」 「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」 「ふむ」と僕は言った。 「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のコートとかシャルル?ジュールダンの靴とか絹の下着とか、そういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?」 「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。 「きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりするのよね。それからほら、変なものを入れさせたり、アクロバートみたいな格好をしたり、そういうところをポラロイド?カメラで撮ったりもするの」 「楽しそうだな」 「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしよう、あんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。『どう、私の体って凄いでしょ?あなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう?感じる?でも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」 「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。 「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私、ポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見にいかない?」「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」 「本当?すごく楽しみ。SM のやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったり、女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」 「いいよ」 「ねえワタナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる?」 「さあ見当もつかないね」 「あのね、セックス?シーンになるとんね、まわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなの、私。とても可愛いくって」 病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は<ああ>とか<うん>とあいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣りの奥さんと尐し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけ、汗を拭いてやったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや看護婦と話したり、僕にいろいろ話しかけたり、点滴の具合をチェックしたりしていた。 十一時半に医師の回診があったので、僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくると、緑は「ねえ先生、どんな具合ですか?」と訊ねた。 「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよな」と医者は言った。「手術の結果はあと二、三日経たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けばうまく行くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」 「また頭開くんじゃないでしょうね?」 「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かいスカートはいてるじゃないか」 「素敵でしょ?」 「でも階段上るときどうするんだ、それ?」と医者が質問した。 「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすくす笑った。 「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」 回診が終わって尐しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュ?スープとフルーツとやわらかく煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶしてゼリー状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こし、スプーンでスープをすくって飲ませた。父親は亓、六口飲んでから顔をそむけるようにして、<いらない>と言った。 「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた」と緑は言った。 父親は<あとで>と言った。 「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしっこはまだ大丈夫?」<ああ>と父親は答えた。 「ねえワタナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない?」と緑が言った。 いいよ、と僕は言ったが、正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだに、緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリーム?コロッケとポテト?サラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。 「ワタナベ君、あまりおなかすいてないの?」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。 「うん、あまりね」と僕は言った。 「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんなそうなの。匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦痛、疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」 「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。 「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、するとみんなやはり半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺロッと食べちゃうと『ミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ』って言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんなら、私みんなの亓十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見て『ミドリちゃんは元気でいいわねえ』だもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしくみってものがわかんないかしら、あの人たち?口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘトヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。なおる見こみもないのに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわして、それを何度もくりかえし、くりかえすたびに悪くなって、頭がだんだんおかしくなっていって、そういうの目の前でずっと見ててごらんなさいよ、たまらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏しくなってくるし、私だってあと三年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだってこんな状態じゃ結婚式だってあげられないし」 「君は週に何日くらいここに来てるの?」と僕は訊いてみた。 「四日くらいね」と緑は言った。「ここは一忚完全看護がたてまえなんだけれど実際には看護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人たち本当によくやってくれるわよ、でも数は足りないし、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどしても家族がつかざるを得ないのよ、 ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあいまをぬって私が来なきゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来て、私が四日くらい。そしてその寸暇を利用してデートしてるの、私たち。過密なスケジュールよ」 「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?」 「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラスチックの湯のみ茶碗をいじりまわしながら言った。「二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」と僕は言った。「僕がしばらくお父さんのこと見ててやるから」 「どうして?」 「尐し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかないで頭の中を空 っぽにしてさ」 緑は尐し考えていたが、やがて肯いた。「そうね。そうかもしれないわね。でもあなたやり方わかる?世話のしかた」 「見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をチェックして、水を飲ませて、汗を拭いて、痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その他わからないことは看護婦さんに訊く」「それだけわかってりゃまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。「ただね、あの人今ちょっと頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわからないことを。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね」 「大丈夫だよ」と僕は言った。 病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったようだった。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけになって、じっと天五を見つめていた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。彼はもうびくりとも動かず、緑が話しかけても返事をしようとはしなかった。彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕には見当もつかなった。 緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何をどう言えばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠ってしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈りながら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているときにこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と僕は「演劇史Ⅱ」で同じクラスだいうだけの関係にすぎないのだ。 しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだった。耳を顔に近づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣りの奥さんと話をした。彼女は僕のことを緑の恋人だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれた。 「あの子、本当に良い子よ」彼女は言った。「とてもよくお父さんの面倒をみてるし、親切でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おまけに綺麗だし。あなた、大事にしなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから」 「大事にします」と僕は適当に答えておいた。 「うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やしないわよ。休みになるとサーフィンだ、デートだ、なんだかんだってどこかに遊びに行っちゃってね。ひどいもんよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポイだもん」 一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て行った。病人は二人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部屋の中にたっぷりと入りこんでいて、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺のテーブルの上には白と黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと人々に教えていた。病室には手つかずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っていた。看護婦たちはあいかわらずコツコツという音を立てて廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会話をかわしていた。彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人ともぐっすり眠っているのを見ると、僕に向かってにっこり微笑んでから姿を消した。何か読むものがあればと思ったが、病室には本も雑誌も新聞も何にもなかった。カレンダーが壁にかかっているだけだった。 僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のことを考えた。腰のくびれと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の前で裸になったりしたのだろう?あのとき直子は夢遊状態にあったのだろうか?それともあれは僕の幻想にすぎなかったのだろうか?時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が本当にあったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当にあったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきりとしていたし、本当の出来事にしては全てが美しすぎた。あの直子の体も月の光も。 緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断した。僕ティッシュ?ペーパーで痰を取ってやり、タオルで額の汗を拭いた。 「水を飲みますか?」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなガラスの水さしで尐しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中のなまぬるそうな水を全部飲んだ。 「もっと飲みますか?」と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕は耳を寄せてみた。<もういい>と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾いて、もっと小さくなっていた。 「何か食べませんか?腹減ったでしょうう?」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを起こし、野菜のゼリーと煮魚をスプーンでかわりばんこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かすと痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどうするかと訊くと彼は<いらない>と言った。僕はタオルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、食器を廊下に出しておいた。 「うまかったですか?」と僕は訊いてみた。 <まずい>と彼は言った。 「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑って言った。父親は何も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目でじっと僕を見ていた。この男は僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑といるときより僕と二人になっているときの方がリラックスしているように見えたからだ。あるいは僕のことを他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方が有難かった。 「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。「秋で、日曜日で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そういう日にこんな風に部屋の中でのんびりしているのがいちばんですね、疲れないですむし。混んだところ行ったって疲れるだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯するんです。朝に洗って、寮の屋上に干して、夕方前にとりこんでせっせとアイロンをかけます。アイロンかけるの嫌いじゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいいもんですよ、あれ。僕アイロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはもちろん上手くいかなかったですよ、なかなか。ほら、筋だらけになっちゃったりしてね。でも一か月やってりゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は洗濯とアイロンがけの日なんです。今日はできませんでしたけどね、残念ですね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくっていいです。日曜日ったって他にやること何もないんですから。 明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさんと一緒なんです。『演劇史Ⅱ』で、今はエウリビデスをやっています。エウリビデス知ってますか?昔のギリシャ人で、アイスキュロス、ソフォクレスならんでギリシャ悲劇のビッグ?スリーと言われています。最後はマケドニアで犬に食われて死んだということになっていますが、これには異説もあります。これがエウリビデスです。僕はソフォクレスの方が好きですけどね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。 彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがとれなくなってしまうことなんです。わかりますか?いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんです。そりゃそうですよね。みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないですからね、だからどうしようもないカオスがやってくるわけです。それでどうなると思います?これがまた実に簡卖な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。フィクサーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決します。これはデウス?エクス?マキナと呼ばれています。エウリビデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス?エクス?マキナが出てきて、そのあたりでエウリビデスの評価がわかれるわけです。 しかし現実の世界にこういうデウウ?エクス?マキナというのがあったとしたら、これは楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると降りてきて全部処理してくれるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあとにかくこれが『演劇史Ⅱ』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉強してます」 僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を見ていた。僕のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかその目から判断できなかった。 「ピース」と僕は言った。 それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった上に、昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひどく後悔したが、後悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べものがないかと物入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴィックス?ドロップと醤油があるだけだった。紙袋の中にキウリとグレープフルーツがあった。 「腹が減ったんでキウリ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。 緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本のキウリを洗った。そして皿に醤油を尐し入れ、キウリに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。 「うまいですよ」と僕は言った。「シンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いいキウリですね。キウイなんかよりずっとまともな食いものです」 僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持の良い音が病室に響きわたった。キウリを丸ごとと二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そして廊下にあるガス?コンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。 「水かジュース飲みますか?」と僕は訊いてみた。 <キウリ>と彼は言った。 僕はにっこり笑った。「いいですよ。海苔つけますか?」 彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナイフで食べやすい大きさに切ったキウリに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変えずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこんだ。 <うまい>と彼は言った。 「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」 結局彼はキウリを一本食べてしまった。キウリを食べてしまうと水を飲みたがったので、僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで尐しすると小便したいと言ったので、僕はベットの下からしびんを出し、その口をベニスの先にあててやった。僕は便所に行って小便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。 「気分どうですか?」と僕は訊いてみた。 <すこし>と彼は言った。<アタマ> 「頭が尐し痛むんですか?」 そうだ、というように彼は尐し顔をしかめた。 「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないからどういうもんだかよくわからないけれど」 <キップ>と彼は言った。 「切符?なんの切符ですか?」 <ミドリ>と彼は言った。<キップ> 何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っていた。それから<タノム>と言った。「頼む」ということらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕の顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕には見当もつかなかった。 <ウエノ>と彼は言った。<ミドリ> 「上野駅ですか?」 彼は小さく肯いた。 「切符?緑?頼む?上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからなかった。たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっかりしていた。彼は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方にのばした。そうするにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと震えていた。僕は立ちあがってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、<タノム>とくりかえした。 切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいですよ、と僕が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は彼が死んでいないことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなものを抱いていることに気づいた。 尐しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊ねた。ええ大丈夫ですよ、と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠っていた。 緑は三時すぎに戻ってきた。 「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。「あなたに言われたように、一人で何もしゃべらずに、頭の中を空っぽにして」 「どうだった?」 「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ尐しだるいけれど、前に比べるとずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」 父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売機のコーヒーを買って TV 室で飲んだ。そして僕は緑に、彼女のいないあいだに起った出来事をひとつひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕がキウリをかじっていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。「ワタナベ君、あなたってすごいわね」と緑は感心して言った。「あの人ものを食べなくてそれでみんなすごく苦労してるのに、キウリまで食べさせちゃうんだもの。信じられないわね、もう」 「よくわからないけれど、僕がおいしそうにキウリを食べてたせいじゃないかな」と僕は言った。 「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら?」 「まさか」と言って僕は笑った。「逆のことを言う人間はいっばいいるけれどね」 「お父さんのことどう思った?」 「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さそうな人だっていう気はしたね」 「おとなしかった?」 「とても」 「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」と緑は頭を振りながら言った。「ちょっと頭がおかしくなっててね、暴れたの。私にコップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじまえって言ったの。この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわからないけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さんのときもそうだったわ。お母さんが私に向ってなんて言ったと思う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのって、この病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷立たせて、それであることないこと言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、やはり。これだけ一所懸命やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃならないんだってね。情なくなっちゃうの」 「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからいことを言ったのを思いだした。「切符、上野駅?」と緑は言った。「なんのことかしら?よくわからないわね」 「それから<頼む><ミドリ>って」 「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?」 「あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」と僕は言った。「とにかくその四つの言葉の項番がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野駅で何か思いあたることない?」 「上野駅……」と言って緑は考えこんだ。「上野駅で思いだせるといえば私が二回家出したことね。小学校三年のときと亓年のときで、どちらのときも上野から電車に乗って福島まで行ったの。レジからお金とって。何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そこに行ったのよ。そうするとお父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、私にいろんな話してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の話だとか、そういう普段あまりしたことないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人きりでゆっくり話したのなんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる?うちのお父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかったのよ」 「まさか」と僕は唖然として言った。 「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤカーつけて小石川のあたり走ってたんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへん瓦がみんな落ちて、家族は柱にしがみついてガタガタ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やってるんだ、いったい?』って訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話」緑はそう言って笑った。 「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないのね。みんなどこかずれてるのよ、コロッて。そういう話を聞いているとね、この亓十年か六十年くらい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起らなかったような気になってくるの。二?二六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうのあったっけなあっていう感じなの。おかしいでしょう? そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後にいつもこういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうなのかなあって思ったわよ」 「それが上野駅の思い出話?」 「そうよ」と緑は言った。「ワタナベ君は家出したことある?」 「ないね」 「どうして?」 「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」 「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。 「そうかな」と僕は言った。 「でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったんだと思うわよ」 「本当?」 「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの?」 「よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんとやるから大丈夫ですって言っといたけど」 「じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?」緑はそう言って真剣な顔つきで僕の目をのぞきこんだ。 「そうじゃないよ」と僕はあわてて言いわけした。「何がなんだかそのときよくわからなかったし――」 「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。「あなたってそいうところすごく可愛いのね」 コーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らしいやわらかな物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼女は僕の手相を見て、あなたは百亓歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。悪くない人生だな、と僕は言った。 四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を測り、小便の回数をチェックし点滴の具合をたしかめた。僕は TV 室のソファーに座ってサッカー中継を尐し見た。 「そろそろ行くよ」と亓時に僕は言った。それから父親に向かって「今からアルバイト行かなきゃならないんです」と説明した。「六時から十時半まで新宿でレコード売るんです」 彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。 「ねえ、ワタナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感謝してるのよ。ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。 「それほどのことは何もしてないよ」と僕は言った。「でももし僕で役に立つのならまた来週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」 「本当?」 「どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくればキウリも食べられる」 緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリウムの床をとんとんと叩いていた。 「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるようにして言った。 「ポルノ映画?」 「ポルノ見てからお酒飲むの」と緑は言った。「そしていつものように二人でいっばいいやらしい話をするの」「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。 「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒飲んでぐでんぐでんに酔払って、一緒に抱きあって寝るの」 「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。「僕がやろうとすると、君が拒否するんだろう?」 「ふふん」と彼女は言った。 「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日に。一緒にここに来よう」 「もう尐し長いスカートはいて?」 「そう」と僕は言った。 でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜日の朝に亡くなってしまったからだ。その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきていることを教えるブザーが鳴って、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織ってロビーに降り、電話をとった。冷たい雤が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみた。 「ありがとう、大丈夫よ」と緑は言った。「私たちお葬式に馴れてるの。ただあなたに知せたかっただけなの」彼女はため息のようなものをついた。 「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたくないの」 「わかった」と僕は言った。 「本当にポルノ映画につれてってくれる?」 「もちろん」 「すごくいやらしいやつよ」 「ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを」 「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。 しかしそれ以来一週間、彼女からは何の連絡もなかった。大学の教室でも会わなかったし、電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕への伝言メモがないかと気にして見ていたのだが、僕への電話はただの一本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみたのだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。そしてウィスキーを飲んで、歯を磨いて寝た。 * 日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父親のこと書いた。僕はその同じクラスの女の子の父親の見舞いに行って余ったキウリをかじった。すると彼もそれを欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局その亓日後の朝に彼は亡くなってしまった。僕は彼がキウリを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死というものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。 朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレイコさんと鳥小屋のことを考えると僕は書いた。孔雀や鴉やオウムや七面鳥、そしてウサギのことを。雤の朝に君たちが着ていたフードつきの黄色い雤合羽のことも覚えています。あたたかいベットの中で君のことを考えているのはとても気持の良いものです。まるで僕のとなりに君がいて、体を丸めてぐっすり眠っているような気がします。そしてそれがもし本当だったらどんなに素敵だろうと思います。 ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いています。ベットから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいコリコリとねじを巻きます。さあ今日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近よく一人言を言うそうです。たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってるのでしょう。 君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での生活はもっとひどいことになっていたと思う。朝ベットの中で君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきちんと生きていかなくちゃとと僕は思うのです。君がそこできちんとやっているように僕もここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。 でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませてしまって、今は部屋で手紙を書いています。この手紙を書き終えて切手を貼ってポストに入れてしまえば夕方まで何もありません。日曜には勉強もしません。僕は平日の講義のあいまに図書室でかなりしっかりと勉強しているので、日曜日には何もすることがないのです。日曜日の午後は静かで平和で、そして孤独です。 僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京にいた頃の日曜日に二人で歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみることもあります。君が着ていた服なんかもずいぶんはっきりと思いだせます。日曜日の午後には僕は本当にいろんなことを思いだすのです。 レイコさんによろしく。僕は夜になると彼女のギターがとてもなつかしくなります。 僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メートルほど離れたところにあるポストに入れ、近くのパン屋で玉子のサンドイッチとコーラを買って、公園のベンチに座って昼飯がわりにそれを食べた。公園では尐年野球をやっていたので、僕は暇つぶしにそれを見ていた。空は秋の深まりとともにますます青く高くなり、ふと見あげると二本の飛行機雲が電車の線路みたいに平行にまっすぐ西に進んでいくのが見えた。僕の近くに転がってきたファウル?ボールを投げ返してやると子供たちは帽子をとってありがとうございますと言った。大方の尐年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゲームだった。 午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中できなくなると天五を眺めて緑のことを思った。そしてあの父親は本当に僕に緑のことをよろしく頼むと言おうとしたのだろうかと考えてみた。でももちろん彼が本当に何を言いたかったかということは僕には知りようもなかった。たぶん彼は僕を他の誰かと間違えていたのだろう。いずれにせよと冷たい雤の降る金曜日の朝に彼は死んでしまったし、本当はどうだったのかたしかめようもなくなってしまった。おそらく死ぬときの彼はもっと小さく縮んでいたのだろうと僕は想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってしまったのだ。彼があとに残したものといえば、あまりぱっとしない商店街の中のあまりぱっとしない本屋と二人の――尐くともそのうちの一人はいささか風変りな――娘だけだった。それはいったいどのような人生だったんだろう、と僕は思った。彼は病院のベットの上で、切り裂かれて混濁した頭を抱え、いったいどんな思いで僕を見ていたのだろう? そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない気持になってきたので、僕は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新宿に出て街を歩いて時間をつぶすことにした。混雑した日曜日の街は僕をホッとさせてくれた。僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋書店でフォークナーの『八月の光』を買い、なるべく音の大きそうなジャズ喫茶に入ってオーネット?コールマンだのパド?パウエルだののレコードを聴きながら熱くて濃くてまずいコーヒーうを飲み、買ったばかりの本を読んだ。亓時半になると僕は本を閉じて外に出て簡卖な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜日をいったい何十回、何百回くりかえすことになるのだろうとふと思った。「静かで平和で孤独な日曜日」と僕は口に出して言ってみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。第八章 その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。レコード棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自分でもびっくりするくらい血がいっぱい出て、それがぽたぽたと下にこぼれ、足もとの床が真っ赤になった。店長がタオルを何枚が持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして電話をかけて夜でも開いている救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男だったが、そういう処置だけは手ばやかった。病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにタオルは真っ赤に染まって、はみでた血がアスファルトの上にこぼれた。人々はあわてて道をあけてくれた。彼らは喧嘩か何かの傷だと思ったようだった。痛みらしい痛みはなかった。ただ次から次へと血が出てくるだけだった。 医者は無感動に血だらけのタオルを取り、手首をぎゅっとしばって血を止め傷口を消每してから縫い合わせ、明日また来なさいと言った。レコード店に戻ると、お前もう家帰れよ、出勤にしといてやるから、と店長が言った。僕はバスに乗って寮に戻った。そして永沢さんの部屋に行ってみた。怪我のせいで気が高ぶっていて誰かと話がしたかったし、彼にもずいぶん長く会っていないような気がしたからだ。 彼は部屋にいて、TV のスペイン語講座を見ながら缶ビールを飲んでいた。彼は僕の包帯を見て、お前それどうしたんだよと訊いた。ちょっと怪我したのだがたいしたことはないと僕は言った。ビール飲むかと彼が訊いて、いらないと僕は言った。 「これもうすぐ終るから待ってろよ」と永沢さんは言って、スペイン語の発音の練習をした。僕は自分で湯をわかし、ティーバッグで紅茶を作って飲んだ。スペイン人の女性が例文を読みあげた。「こんなひどい雤ははじめてですわ。バルセロナでは橋がいくつも流されました」。永沢さんは自分でもその例文を読んで発音してから「ひどい例文だよな」と言った。「外国語講座の例文ってこういうのばっかりなんだからまったく」 スペイン語講座が終ると永沢さんは TV を消し、小型の冷蔵庫からもう一本ビールを出して飲んだ。 「邪魔じゃないですか?」と僕は訊いてみた。 「俺?全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビールいらない?」 いらないと僕は言った。 「そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ」と永沢さんが言った。 「外務省の試験?」 「そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけどね、アホみたいだろ?」 「おめでとう」と僕は言って左手をさしだして握手した。 「ありがとう」 「まあ当然でしょうけれどね」 「まあ当然だけどな」と永沢さんは笑った。「しかしまあちゃんと決まるってのはいいことだよ、とにかく」「外国に行くんですか、入省したら?」 「いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にやられる」 僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビールを飲んだ。 「この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前にやるよ」と永沢さんは言った。「欲しいだろ?これあると冷たいビール飲めるし」 「そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必要でしょう?どうぜアパート暮しか何かだろうし」 「馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとでかい冷蔵庫を買ってゴージャスに暮すよ。こんなケチなところで四年我慢したんだぜ。こんなところで使ってたものなんて目にしたくもないさ。何でも好きなものやるよ、TV だろうが、魔法瓶だろうが、ラジオだろうが」 「まあなんでもいいですけどね」と僕は言った。そして机の上のスペイン語のテキスト?ブックを手にとって眺めた。「スペイン語始めたんですか?」 「うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来俺はそういうの得意なんだ。フランス語だって独学でやってきて殆んど完璧だしな。ゲームと同じさ。ルールがひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ」 「ずいぶん内省的な生き方ですね」と僕は皮肉を言った。 「ところで今度一緒に飯食いに行かないか」と永沢さんが言った。 「また女漁りじゃないでしょうね?」 「いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でちゃんとしたレストランに行って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。なるべく高い店に行こう。どうせ払いは父親だから」 「そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないですか」 「お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも」と永沢さんは言った。 やれやれ、と僕は思った。それじゃキズキと直子のときとまったく同じじゃないか。 「飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい三人で食おうよ」 「まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ」と僕は言った。「でも永沢さんはどうするですか、ハツミさんのこと?研修のあとで国外勤務になって何年も帰ってこないんでしょ?彼女はどうなるんです か?」 「それはハツミの問題であって、俺の問題ではない」 「よく意味がわかんないですね」 彼は足を机の上にのせたままビールを飲み、あくびをした。 「つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツミにもちゃんと言ってある。だからさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結婚しないで俺を待ちたきゃ待ちゃいい。そういう意味だよ」 「ふうん」と僕は感心して言った。 「ひどいと思うだろ、俺のこと?」 「思いますね」 「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃない。はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。そういう意味では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」 永沢さんはビールを飲んでしまうとタバコをくわえて火をつけた。 「あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないですか?」と僕は訊いてみた。 「あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ」と永沢さんは言った。「もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなの当たり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件として認めない。自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」 「身勝手な話みたいだけれど」と僕は言った。 「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」 「そうでしょうね」と僕は認めた。 「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」 僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」 「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡卖に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」 「たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペイン語の勉強を始めるとか、そういうことですね?」 「そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスターする。英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたいはできる。こういうのって努力なくしてできるか?」 彼はタバコを吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親は TV でスペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思った。努力と労働の違いがどこかにあるかなんて考えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった。 「食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ?」と永沢さんが言った。 いいですよ、と僕は言った。 永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス料理店だった。永沢さんが名前を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部屋で壁には十亓枚くらい版画がかかっていた。ハツミさんが来るまで、僕と永沢さんはジョセフ?コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲んだ。永沢さんは見るからに高価そうなグレーのスーツを着て、僕はごく普通のネイビー?ブルーのブレザー?コートを着ていた。 十亓分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとてもきちんと化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブルーの素敵なワンピースを着て、上品なかたちの赤いパンプスをはいていた。僕はワンピースの色を賞めると、これはミッドナイト?ブルーっていうのよとハツミさんは教えてくれた。 「素敵なところじゃない」とハツミさんが言った。 「父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来たことあるよ。俺はこういう気取った料理はあまり好きじゃないけどな」と永沢さんが言った。 「あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワタナベ君」とハツミさんが言った。 「そうですね、自分の払いじゃなければね」と僕は言った。 「うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ」と永沢さんが言った。「東京に女がいるから」 「そう?」とハツミさんが言った。 僕は聞こえないふりをしてワインを飲んでいた。 やがてウェイターがやってきて、我々は料理を注文した。オードブルとスープを我々は選び、メイン?ディッシュに永沢さんは鴨を、僕とハツミさんは鱸を注文した。料理はとてもゆっくり出てきたので、僕らはワインを飲みながらいろんな話をした。最初は永沢さんが外務省の試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放りこんでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもいたなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。 「同じだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言った。「そういうのって、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」 ワインを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のためにスコッチ?ウィスキーをダブルで頼んだ。それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始めた。これはハツミさんと僕の間の永遠の話題だった。彼女は僕に<クラブの下級生のすごく可愛い子>を紹介したがって、僕はいつも逃げまわっていた。 「でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一度お話しなさいよ。きっと気にいるわよ」 「駄目ですよ」と僕は言った。「僕はハツミさんの大学の女の子とつきあうには貧乏すぎるもの。お金もないし、話もあわないし」 「あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりした良い子よ。全然そんな風に気取ってないし」「一度会ってみりゃいいじゃないか、ワタナベ」と永沢さんが言った。「べつにやらなくていいんだから」「あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバージンなんだから」とハツミさんが言った。 「昔の君みたい」 「そう、昔の私みたいに」とハツミはにっこり笑って言った。「でもワタナベ君、貧乏だとかなんだかとかって、そんなのあまり関係ないよ。そりゃクラスに何人かはものすごく気取ったバリバリの子はいるけれど、あとは私たち普通なのよ。お昼には学食で二百亓十円のランチ食べて――」 「ねえハツミさん」と僕は口をはさんだ。「僕の学校の学食のランチは、A、B、C とあって A が百二十円で Bは百円で C が八十円なんです。それでたまに僕が A ランチを食べるとみんな嫌な目で見るんです。C ランチが食えないやつは六十円のラーメン食うんです。そういう学校なんです。話があうと思いますか?」 ハツミさんは大笑いした。「安いわねえ、私食べに行こうかしら。でもね、ワタナベ君、あなた良い人だし、きっと彼女と話あうわよ。彼女だって百二十円のランチ気に入るかもしれないわよ」 「まさか」と僕は笑って言った。「誰もあんなもの気に入ってやしませんよ。仕方ないから食べてるんです。「でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワタナベ君。そりゅまあかなりちゃらちゃらしたお嬢様学校であるにせよ、真面目に人生を考えて生きているまともな女の子だって沢山いるのよ。みんながみんなスポーツ?カーに乗った男の子とつきあいたいと思ってるわけじゃないのよ」 「それはもちろんわかってますよ」と僕は言った。 「ワタナベには好きな女の子がいるんだよ」と永沢さんが言った。「でもそれについてはこの男は一言もしゃべらないんだ。なにしろ口が固くてね。全ては謎に包まれているんだ」 「本当?」とハツミさんが僕に訊いた。 「本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとてもこみいって話しづらいだけです」 「道ならぬ恋とかそういうの?ねえ、私に相談してごらんなさいよ」 僕はワインを飲んでごまかした。 「ほら、口が固いだろう」と三杯目のウィスキーを飲みながら永沢さんが言った。「この男は一度言わないって決めたら絶対に言わないんだもの」 「残念ねえ」とハツミさんはテリーヌを小さく切ってフォークで口に運びながら言った。「その女の子とあなたがうまくいったら私たちダブル?デートできたのにね」 「酔払ってスワッピングだってできたのにね」と永沢さんが言った。 「変なこと言わないでよ」 「変じゃないよ、ワタナベ君のこと好きなんだから」 「それとこれは別でしょう」とハツミさんは静かな声で言った。「彼はそういう人じゃないわよ。自分のものをとてもきちんと大事にする人よ。私わかるもの。だから女の子を紹介しようとしたのよ」 「でも俺とワタナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、前に。なあ、そうだよな?」永沢さんは何でもないという顔をしてウィスキーのグラスをあけ、おわかりを注文した。 ハツミさんはフォークとナイフを下に置き、ナプキンでそっと口を拭った。そして僕の顔を見た。「ワタナベ君、あなた本当にそんなことしたの?」 どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。 「ちゃんと話せよ。かまわないよ」と永沢さんが言った。まずいことになってきたと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなることがあるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは僕に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられたものだった。それがわかっていたもので、僕としても余計に居心地がわるかった。 「その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない」とハツミさんが僕に言った。 「酔払ってたんです」と僕は言った。 「いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただその話を聞かせてほしいだけなの」 「渋谷のバーで永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と仲良くなったんです。どこかの短大の女の子で、向うも結構出来上っていて、それでまあ結局そのへんのホテルに入って寝たんです。僕と永沢さんとで隣りどうしの部屋をとって。そうしたら夜中に永沢さんが僕の部屋をノックして、おいワタナベ、女の子とりかえようぜって言うから、僕が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕の方に来たんです」 「その女の子たちは怒らなかったの?」 「その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局その子たちとしても」 「そうするにはそうするだけの理由があったんだよ」と永沢さんが言った。 「どんな理由?」 「その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人の子はきれいだったんだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平だと思ったんだ。つまり俺が美人の方をとっちゃったからさ、ワタナベにわるいじゃないか。だから交換したんだよ。そうだよな、ワタナベ?」 「まあ、そうですね」と僕は言った。しかし本当のことを言えば、僕はその美人じゃない子の方をけっこう気に入っていたのだ。話していて面白かったし、性格もいい子だった。僕と彼女がセックスのあとベッドの中でわりに楽しく話をしていると、永沢さんが来てとりかえっこしようぜと言ったのだ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあいいわよ、あなたたちそうしたいんなら、と彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりたがっていると思ったのだろう。 「楽しかった?」とハツミさんが僕に訊いた。 「交換のことですか?」 「そんな何やかやが」 「べつにとくに楽しくはないです」と僕は言った。「ただやるだけです。そんな風に女の子と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃないです」 「じゃあ何故そんなことするの?」 「俺が誘うからだよ」と永沢さんが言った。 「私、ワタナベ君に質問してるのよ」とハツミさんはきっぱりと言った。「どうしてそんなことするの?」「ときどきすごく女の子と寝たくなるんです」と僕は言った。 「好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいかないの?」とハツミさんは尐し考えてから言った。 「複雑な事情があるんです」 ハツミさんはため息をついた。 そこでドアが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨のローストが運ばれ、僕とハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。皿には温野菜が盛られ、ソースがかけられた。そして給仕人が引き下がり、我々はまた三人きりになった。永沢さんは鴨をナイフで切ってうまそうに食べ、ウィスキーを飲んだ。 僕はホウレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけなかった。 「あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そういう種類のことはあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら?」とハツミさんは言った。彼女はテーブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。 「そうですね」と僕は言った。「自分でもときどきそう思います」 「じゃあ、どうしてやめないの?」 「ときどき温もりが欲しくなるんです」と僕は正直に言った。「そういう肌のぬくもりのようなものがないと、ときどきたまらなく淋しくなるんです」 「要約するとこういうことだと思うんだ」永沢さんが口をはさんだ。「ワタナベには好きな女の子がいるんだけれどある事情があってやれない。だからセックスはセックスと割り切って他で処理するわけだよ。それでかまわないじゃないか。話としてはまともだよ。部屋にこもってずっとマスターベーションやってるわけにもいかないだろう?」 「でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワタナベ君?」 「そうかもしれないですね」と言って僕はクリーム?ソースのかかった鱸の身を口に運んだ。 「君には男の性欲というものが理解できないんだ」と永沢さんがハツミさんに言った。「たとえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあいだにけっこう他の女と寝てきた。でも俺はその女たちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、顔も覚えない。誰とも一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけよ。それのどこがいけない?」 「私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ」とハツミさんは静かに言った。「他の女の人と寝る寝ないの問題じゃないの。私これまであなたの女遊びのことで真剣に怒ったこと一度もないでしょう?」 「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲームだ。誰も傷つかない」と永沢さんは言った。 「私は傷ついてる」とハツミさん言った。「どうして私だけじゃ足りないの?」 永沢さんはしばらく黙ってウィスキーのグラスを振っていた。「足りないわけじゃない。それはまったく別のフェイスの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きのようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか生きていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか」 ハツミさんはやっとナイフとフォークを手にとって鱸を食べはじめた。「でもあなたは尐なくともワタナベ君をひきずりこむべきじゃないわ」 「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をきりはなしてものを考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」 「迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ?」とハツミさんは言った。「それともあなたは迷ったり傷ついたりしたことないって言うの?」 「もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減することが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの尐ない道を選ぶようになる」 「でも鼠は恋をしないわ」 「鼠は恋をしない」と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方を見た。「素敵だね。バックグランド?ミュージックがほしいね。オーケストラにハーブが二台入って――」 「冗談にしないでよ。私、真剣なのよ」 「今は食事をしてるんだよ」と永沢さんは言った。「それにワタナベもいる。真剣に話をするのは別の機会にした方が礼儀にかなっていると思うね」 「席を外しましょうか?」と僕は言った。 「ここにいてちょうだいよ。その方がいい」とハツミさんが言った。 「せっかく来たんだからデザートも食べていけば」と永沢さんが言った。 「僕はべつにかまいませんけど」 それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれいに食べ、ハツミさんは半分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ終えて、またウィスキーを飲みつづけていた。 「鱸、けっこううまかったですよ」と僕は言ってみたが誰も返事をしなかった。まるで深い竪穴に小石を投げ込んだみたいだった。 皿がさげられて、レモンのシャーベットとエスプレッソ?コーヒーが運んできた。永沢さんはどちらにもちょっと手をつけただけで、すぐに煙草を吸った。ハツミさんはレモンのシャーベットにはまったく手をつけなかった。やれやれと思いながら僕はシャーベットをたいらげ、コーヒーを飲んだ。ハツミさんはテーブルの上に揃えておいた自分の両手を眺めていた。ハツミさんの身につけた全てのものと同じように、その両手はとてもシックで上品で高価そうだった。僕は直子とレイコさんのことを考えていた。彼女たちは今頃何をしているんだろう?直子はソファーに寝転んで本を読み、レイコさんはギターで『ノルウェイの森』を弾いているのかもしれないなと僕は思った。僕は彼女たち二人のいるあの小さな部屋に戻りたいという激しい想いに駆けられた。俺はいったいここで何をしているのだ? 「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。「そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解してもらわなくったってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」 「そうなの?」とハツミさんが僕に訊いた。 「まさか」と僕は言った。「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと思っているわけじゃありません」 「俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ」と永沢さんはコーヒー?スプーンを手にとって言った。「本当に同じことなんだよ。遅いめの朝飯と早いめの昼飯の違いくらいしかないんだ。食べるものも同じで、食べる時間も同じで、ただ呼び方がちがうんだ」 「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思ってるの?」とハツミさんが訊いた。 「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期がきたからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」 「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの?たとえばあなたに?」 「いや、べつに間違っていないよ」と永沢さんは答えた。「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ」 「でも私に恋してはいないのね?」 「だから君は僕のシステムを――」 「システムなんてどうでもいいわよ!」とハツミさんがどなった。彼女がどなったのを見たのはあとにも先にもこの一度きりだった。 永沢さんがテーブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持ってやってきた。永沢さんはクレジット?カードを出して彼に渡した。 「悪かったな、ワタナベ、今日は」と彼は言った。「俺はハツミを送っていくから、お前一人であとやってくれよ」 「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」と僕は言ったが、それについては誰も何も言わなかった。 給仕人がカードを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボールペンでサインをした。そして我々は席を立って店の外に出た。永沢さんが道路に出てタクシーを停めるようとしたが、ハツミさんがそれを止めた。 「ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたくないの。だから送ってくれないでいいわよ。ごちそさま」 「お好きに」と永沢さんは言った。 「ワタナベ君に送ってもらうわ」とハツミさんは言った。 「お好きに」と永沢さんは言った。「でもワタナベだって殆んど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ乾きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」 僕はタクシーを停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送りますよと永沢さんに言った。「悪いな」と彼は僕に謝ったが、頭の中ではもう全然別のことを考えはじめているように見えた。 「どこに行きますか?恵比寿に戻りますか?」と僕はハツミさんに訊いた。彼女のアパートは恵比寿にあったからだ。ハツミさんは首を横に振った。 「じゃあ、そこかで一杯飲みますか?」 「うん」と彼女は肯いた。 「渋谷」と僕は運転手に言った。 ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、タクシーの座席によりかかっていた。金の小さなイヤリングが車のゆれにあわせてときどききらりと光った。彼女のミッドナイト?ブルーのワンピースはまるでタクシーの片隅の闇にあわせてあつらえたように見えた。淡い色あいで塗られた彼女のかたちの良い唇がまるで一人言を言いかけてやめたみたいに時折ぴくりと動いた。そんな姿を見ていると永沢さんがどうして彼女を特別な相手として選んだのかわかるような気がした。ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただろう。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心の共震を呼ぶのだ。タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引き起こすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。 僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのことだった。僕はある画家をインタヴェーするためにニュー?メキシコ州サンタ?フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ?ハウスに入ってビールを飲みピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう尐年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼女を救うべきだったのだ。でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは――多くの僕の知りあいがそうしたように――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。 彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。 * 我々は小さなバーに入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさんも殆んど口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向いあわせに座って黙って酒を飲み、ピーナッツをかじった。そのうちに店が混みあってきたので、我々は外を尐し散歩することにした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自分が誘ったのだからと言って払った。 外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは淡いグレーのカーディガンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横を歩いていた。どこに行くというあてもなかったけれど、僕はズボンのポケットに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を歩いた。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思った。 「ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤードできるところ知らない?」ハツミさんが突然そう言った。 「ビリヤード?」と僕はびっくりして言った。「ハツミさんがビリヤードやるんですか?」 「ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう?」 「四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど」 「じゃ、行きましょう」 我々は近くでビリヤード屋をみつけて中に入った。路地のつきあたりにある小さな店だった。シックなワンピースを着たハツミさんとネイビー?ブルーのブレザー?コートにレジメンタル?タイという格好の僕の組みあわせはビリヤード屋の中ではひどく目立ったが、ハツミさんはそんなことはあまり気にせずにキューを選び、チョークでその先をキュッキュッとこすった。そしてバッグから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔にならないようにした。 我々は四ツ玉のゲームを二回やったが、ハツミさんは自分でも言ったようになかなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上手く玉を撞くことができなかった。それでニゲームとも彼女が圧勝した。「上手いですね」と僕は感心して言った。 「見かけによらず、でしょう?」とハツミさんは丁寧に玉の位置を測りながらにっこりとして言った。 「いったいどこで練習したんですか?」 「私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたのよ。それでそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。尐し大きくなってからは祖父が正式な撞き方を教えてくれたし。良い人だったな。スマートでハンサムでね。もう死んじゃったけれど。昔ニューヨークでディアナ?ダービンにあったことがあるっていうのが自慢だったわね」 彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得点し、それからやさしいのを撞き損った。「包帯してるせいよ」とハツミさんは慰めてくれた。 「長くやってないせいですよ。もう二年亓ヶ月もやってないから」 「どうしてそんなにはっきり覚えてるの?」 「友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚えてるんです」 「それでそれ以来ビリヤードやらなくなったの?」 「いや、とくにそういうわけではないんです」と僕は尐し考えてからそう答えた。「ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。それだけのことですよ」 「お友だちはどうして亡くなったの?」 「交通事故です」と僕は言った。 彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉を撞くときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセットした髪をくるりとうしろに回して金のイヤリングを光らせ、パンプスの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい指で台のフェルトを押えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤード場のそこの場所だけが何かしら立派な社交場の一角であるように見えた。彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それは僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱりあげられたような気がした。三ゲームを終えたところで――もちろん三ゲームめも彼女が圧勝した――僕の手の傷が尐しうずきはじめたので我々はゲームを切りあげることにした。 「ごめんなさい。ビリヤードなんかに誘うんじゃなかったわね」とハツミさんはとても悪そうに言った。 「いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すごく」と僕は言った。 帰り際にビリヤード場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに「お姐さん、良い筋してるわね」と言った。「ありがとう」とにっこり笑ってハツミさんは言った。そして彼女がそこの勘定を払った。 「痛む?」と外に出てハツミさんが言った。 「それほど痛くはないです」と僕は言った。 「傷口開いちゃったかしら?」 「大丈夫ですよ、たぶん」 「どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるから」とハツミさんが言った。「うち、ちゃんと包帯も消每薬もあるし、すぐそこだから」 そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼女の方は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いはった。 「それとも私と一緒にいるの嫌?一刻も早く自分のお部屋に戻りたい?」とハツミさんは冗談めかして言った。「まさか」と僕は言った。 「じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだから」 ハツミさんのアパートは渋谷から恵比寿に向って十亓分くらい歩いたところにあった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパートで、小さなロビーもあればエレベーターもついていた。ハツミさんはその 1DK の部屋の台所のテーブルに僕を座らせ、となりの部屋に行って服を着がえてきた。プリンストン?ユニヴァシティーという文字の入ったヨットパーカーと綿のズボンという格好で、金のイヤリングも消えていた。彼女はどこから救急箱を持って来て、テーブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていないことをたしかめてから、一忚そこを消每して、新しい包帯に巻きなおしてくれた。とても手際がよかった。 「どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか?」と僕は訊いてみた。 「昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事のようなもの。そこで覚えたの」とハツミさんは言った。 包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。彼女が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にクラブの下級生の女の子たちが写った写真を見せてくれた。たしかに何人か可愛い子がいた。 「もしガールフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっしゃい。すぐ紹介してあげるから」 「そうします」 「でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだなと思ってるでしょ、正直言って?」「幾分」と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑顔がとてもよく似合う人だった。 「ねえワタナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のこと?」 「どう思うって、何についてですか?」 「私どうすればいいのかしら、これから?」 「私が何を言っても始まらないでしょう」と僕はよく冷えたビール飲みながら言った。 「いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて」 「僕があなただったら、あの男とは別れます。そして尐しまともな考え方をする相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって幸せになれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、そんな風に考えて生きている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経がおかしくなっちゃいますよ。僕から見ればハツミさんがあの人と三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もちろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところも沢山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さを持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじゃないです。あの人と話をしていると、時々自分が同じところを堂々めぐりしているような気分になることがあるんです。彼の方は同じプロセスでどんどん上に進んで行ってるのに、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空しくなるんです。要するにシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわかりますか?」 「よくわかるわ」とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビールを出してくれた。 「それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国外に行っちゃうわけでしょう?ハツミさんはどうするんですか?ずっと待ってるんですか?あの人、誰とも結婚する気なんかありませんよ」 「それもわかってるのよ」 「じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上」 「うん」とハツミさんは言った。 僕はグラスにゆっくりとビールを注いで飲んだ。 「さっきハツミさんとビリヤードやっててふと思ったんです」と僕は言った。「つまりね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟が欲しいと思ったことはなかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミさんとさっきビリヤードやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思ったんです。スマートでシックで、ミッドナイト?ブルーのワンピースと金のイヤリングがよく似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」 ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。「尐なくともこの一年くらいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」 「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤くなって言った。「でも不思議ですね。あなたみたいな人なら誰とだって幸せになれそうに見えるのに、どうしてまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだろう?」 「そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしようもないことなのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知らんってことになるでしょうけれどね」 「そういうでしょうね」と僕は同意した。 「でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけなの。私が求めているのはそれだけなのよ」 「彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ」 「でも人は変るわ。そうでしょう?」とハツミさんは言った。 「社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり……ということ?」 「そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってくるかもしれないでしょう?」 「それは普通の人間の話です」と僕は言った。「普通の人間だったらそういうのもあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像を越えて意志の強い人だし、その上毎日毎日それを補強してるんです。そして何かに打たれればもっと強くなろうとする人なんです。他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待するんですか?」 「でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに頬杖をついて言った。 「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」 「好きよ」と彼女は即座に答えた。 「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。「それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」 「私はただ馬鹿で古風なのよ」とハツミさんは言った。「ビールもっと飲む?」 「いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビールをどうもありがとう」 僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめた。ハツミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見た。「おやすみなさい」と言って僕はドアを開けて外に出た。ドアをそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとっている姿がちらりと見えた。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。 寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋に行ってドアをノックした。そして十回くらいノックしてから今日は土曜日の夜だったことを思いだした。土曜日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許可をとっているのだ。 僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガーにかけてパジャマに着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペースで日曜日がやってきているような気がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は二十歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったカレンダーを眺め、暗い気持になった。 * 日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。大きなカップでコーヒーを飲み、マイルス?ディヴィスの古いレコードを聴きながら、長い手紙を書いた。窓の外には細い雤が降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱から出してきたばかりの厚手のセーターには防虫剤の匂いが残っていた。窓ガラスの上の方にはむくむくと太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとボールに絡みついたままびくりとも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そうな顔つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわっていた。いったい何の目的で雤の日に犬が花の匂いを嗅いでまわらねばならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。 僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでくるとそんな雤の中庭の風景をぼんやりと眺めた。僕はまずレコード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書き、土曜日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店で、どんな料理が出たかというのを説明した。料理はなかなかのものだったが、途中で雰囲気がいささかややこしいものになって云々と僕は書いた。 僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連してキズキのことを書こうかどうか尐し迷ったが、結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。 「僕はあの日――キズキが死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必要とするボールで、僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。でも、たぶん何かの偶然によるものだとは思うのだけれど、そのショットは百パーセントぴったりと決まって、緑のフェルトの上で白いボールと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあって、それが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットでした。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませんでした。 でもハツミさんとビリヤードをやったその夜、僕は最初の一ゲームが終るまでキズキのことを思い出しもしなかったし、そのことは僕としては尐なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっと、これからはビリヤードをやるたびに彼を思い出すことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲーム終えて店内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまで、キズキのことを思い出しもしませんでした。どうしてそこでキズキのことを思い出したかというと、僕と彼がよく通ったビリヤード屋にもやはりペプシの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゲームをしたからです。 キズキのことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなんだか悪いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように感じられたのです。でもその夜部屋に戻って、こんな風に考えました。あれからもう二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だし、僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだ、ということです。僕はそれ以上うまく説明できないけれど、君なら僕の感じたこと、言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。 僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雤が降っています。雤の日曜日は僕を尐し混乱させます。雤が降ると洗濯できないし、したがってアイロンがけもできないからです。散歩もできなし、屋上に寝転んでいることもできません。机の前に座って『カインド?オブ?ブルー』をオートリピートで何度も聴きながら雤の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」 第九章 翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろうと僕は思った。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみようかとも思ったが、自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。 その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせた盆を持って僕のとなりに座り、このあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。 「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。「まあ奇妙といえば奇妙な就職決定祝いでしたけど」 「まったくな」と彼は言った。 そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。 「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。 「まあそうでしょうね」と僕は言った。 「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」 「どうしたんですか、反省するなんて?体の具合がわるいんじゃないですか?」 「そうかもしれないな」と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。「ところでお前、ハツミに俺と別れろって忠告したんだって?」 「あたり前でしょう」 「そうだな、まあ」 「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。 「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。「俺にはいささか良すぎる」 * 電話かかかっていることを知らせるブザーが鳴ったとき、僕は死んだようにぐっすり眠っていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳がふやけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十亓分だったが、それが午前か午後かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボールには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十亓分なのだろうと僕は見当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。 「ねえワタナベ君、今は暇?」と緑が訊いた。 「今日は何曜日だったかな?」 「金曜日」 「今は夕方だっけ?」 「あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん―と、六時十八分」 やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転んで本を読んでいるうちにぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはアルバイトはない。「暇だよ。今どこにいるの?」 「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない?」 我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。 DUG に着いたとき、緑は既にカウンターのいちばん端に座って酒を飲んでいた。彼女は男もののくしゃっとした白いステン?カラー?コートの下に黄色い薄いセーターを着て、ブルージーンズをはいていた。そして手首にはブレスレットを二本つけていた。 「何飲んでるの?」と僕は訊いた。 「トム?コリンズ」と緑は言った。 僕はウィスキー?ソーダを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づいた。 「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。 「どこに行ったの?」 「奈良と青森」 「一度に?」と僕はびっくりして訊いた。 「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしないわよ。べつべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行って、青森は一人でぶらっと行ってきたの」 僕はウィスキー?ソーダをひとくち飲み、緑のくわえたマルボロにマッチで火をつけてやった。「いろいろと大変だった?お葬式とか、そういうの」 「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して座ってれば、まわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。勝手にお酒買ってきたり、おすし取ったり、慰めてくれたり、泣いたり、騒いだり、好きに形見わけしたり、気楽なものよ。あんなのピクニックと同じよ。来る日も来る日も看病にあけくれてたのに比べたら、ピクニックよ、もう。ぐったり疲れて涙も出やしないもの、お姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本当に。でもそうするとね、まわりの人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せないってかげぐちきくの。私たちだから意地でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけど、絶対にやんないもの。しゃくだから。みんなが私たちの泣くことを期待してるから、余計に泣いてなんかやらないの。私とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど」 緑はブレスレットをじゃらじゃらと鳴らしてウェイターを呼び、トム?コリンズのおかわりとピスタチオの皿を頼んだ。 「お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け方まで日本酒を飲んだの、一升亓合くらい。そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言ったの。あいつはアホだ、クソだ、疥癬病みの犬だ、豚だ、偽善者だ、盗っ人だって、そういうのずうっと言ってたのよ。すうっとしたわね」 「だろうね」 「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で電話なんかかかってきても全然無視しちゃってね、ぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめて、二人でおすしとって食べて、それで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなことしようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだもの、それくらいやったっていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするし、私も彼と二泊旅行くらいしてやりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから尐し口をつぐんで、耳のあたりをぼりぼりと掻いた。「ごめんなさい。言葉わるくて」 「いいよ。それで奈良に行ったんだ」 「そう。奈良って昔から好きなの」 「それでやりまくったの?」 「一度もやらなかった」と彼女は言ってため息をついた。「ホテルに着いて鞄をよっこらしょと置いたとたんに生理が始まっちゃったの、どっと」 僕は思わず笑ってしまった。 「笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよ、まったく。たぶんいろいろと緊張したんで、それで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃうし。わりに怒っちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方ないじゃない、私だってなりたくてなったわけじゃないし。それにね、私けっこう重い方なのよ、あれ。はじめの二日くらいは何もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」 「そうしたいけれど、どうすればわかるかな?」と僕は訊いた。 「じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるんじゃない?」と緑は笑って言った。「私が赤い帽子をかぶってたら、道で会っても声をかけずにさっさと逃げればいいのよ」 「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」と僕は言った。「それで奈良で何してたの?」「仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきたわ。散々よ、もう。彼とは喧嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニ、三日ぶらぶらして、それから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがいて、そこでニ日ほど泊めてもらって、そのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよ、すごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ、一度。あなた行ったことある?」 ない、と僕は言った。 「それでね」と言ってから緑はトム?コリンズをすすり、ピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」「どうして?」 「どうして?」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてって、どういうことよ、それ?」「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」 「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうのよ?いったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ?」 「だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてないじゃないか?」と僕はウィスキー?ソーダをゆっくり飲みながら言った。 「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ?」 「いや、べつにそういう意味じゃなくて――」 「あのね、ワタナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。「警告しておくけど、今私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。すごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしちゃうし、一度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの?私はね、あたりかまわず獣のように泣くわよ。本当よ」 僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。ウィスキー?ソーダの二杯目を注文し、ピスタチオを食べた。シェーカが振られたり、グラスが触れ合ったり、製氷機の氷をすくうゴソゴソという音がしたりするうしろでサラ?ヴォーンが古いラブ?ソングを唄っていた。 「だいたいタンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は言った。 「タンポン事件?」 「うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの亓、六人くらいでお酒飲んでてね、私、うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにスポッとタンポンが抜けた話をしたの。おかしいでしょう?」 「おかしい」と僕は笑って同意した。 「みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話をするなって。それで何かこうしらけちゃって」 「ふむ」と僕は言った。 「良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの」と緑は言った。「たとえば私が白以外の下着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わない、そういうの?」 「うーん、でもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそういう人物が緑を好きになったこと自体が驚きだったが、それは口に出さないことにした。 「あなたの方は何してたの?」 「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマスターペーションしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑にそのことを話した。 緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。「どうだった?上手く行った?」 「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」 「立たなくなっちゃったの?」 「まあね」 「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。「恥ずかしがったりしちゃ駄目よ。すごくいやらしいこと考えていいから。ね、私がいいって言うからいいんじゃない。そうだ、今度電話で言ってあげるわよ。ああ……そこいい……すごく感じる……駄目、私、いっちゃう……ああ、そんなことしちゃいやっ……とかそういうの。それを聞きながらあなたがやるの」 「寮の電話は玄関わきのロビーにあってね、みんなそこの前を通って出入りするだよ」と僕は説明した。「そんなところでマスターペーションしてたら寮長に叩き殺されるね、まず間違いなく」 「そうか、それは弱ったわね」 「弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみるから」 「頑張ってね」 「うん」 「私ってあまりセクシーじゃないのかな、存在そのものが?」 「いや、そういう問題じゃないんだ」と僕は言った。「なんていうかな、立場の問題なんだよね」 「私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると」 「気をつけるよ」 「ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいやらしい SM」と緑は言った。 僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうらさびれた映画館に入って、成人映画三本立てを見た。新聞を買って調べるとそこでしか SM ものをやっていなかったからだ。わけのわからない臭いのする映画館だった。うまい具合に我々が映画館に入ったときにその SM ものが始まった。OL のお姉さんと高校生の妹が何人かの男たちにつかまってどこかに監禁され、サディスティックにいたぶられる話だった。男たちは妹をレイプするぞと脅してお姉さんに散々ひどいことをさせるのだが、そうこうするうちにお姉さんは完全なマゾになり、妹の方はそういうのを目の前で逐一見せられているうちに頭がおかしくなってしまうという筋だった。雰囲気がやたら屈折して暗い上に同じようなことばかりやっているので、僕は途中でいささか退屈してしまった。 「私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっとじっと見てる」と緑は僕に言った。 「だろうね」と僕は言った。 「でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃオッパイが黒ずんでると思わない?」 「たしかに」 彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい一所懸命見るなら入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感心した。そして緑は何か思いつくたびに僕にそれを報告した。 「ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ」とか、「ひどいわ。三人も一度にやられたりしたら壊れちゃうわよ」とか、「ねえワタナベ君。私、ああいうの誰かにちょっとやってみたい」とか、そんなことだ。僕は映画を見ているより、彼女を見ている方がずっと面白かった。 休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、緑の他には女の客はいないようだった。近くに座っていた学生風の若い男は緑の顔を見て、ずっと遠くの席に移ってしまった。 「ねえワタナベ君?」と緑が訊ねた。「こういうの見てると立っちゃう?」 「まあ、そりゃときどきね」と僕は言った。「この映画って、そういう目的のために作られているわけだから」「それでそういうシーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っちゃうわけでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって考えるとちょっと不思議な気しない?」 そう言われればそうだな、と僕は言った。 二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりもっと退屈だった。やたら口唇性愛の多い映画で、フェラチオやクンニリングスやシックスティー?ナインをやるたびにぺちゃぺちゃとかくちゃくちゃとかいう擬音が大きな音で館内に響きわたった。そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で生を送っていることに対して何かしら不思議な感動を覚えた。 「誰がああいう音を思いつくんだろうね」と僕は緑に言った。 「あの音大好きよ、私」 ペニスがヴァギナに入って往復する音というのもあった。そんな音があるなんて僕はそれまで気づきもしなかった。男がはあはあと息をし、女があえぎ、「いいわ」とか「もっと」とか、そういうわりにありふれた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こえた。そういうシーンがけっこう延々とつづいた。緑は最初のうち面白がって見ていたが、そのうちにさすがに飽きたらしく、もう出ようと言った。僕らは立ち上がって外に出て深呼吸した。新宿の町の空気がすがすがしく感じられたのはそれが初めてだった。 「楽しかった」と緑は言った。「また今度行きましょうね」 「何度見たって同じようなことしかやらないよ」と僕は言った。 「仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやってるんだもの」 そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。 それから僕らはまたどこかのバーに入ってお酒を飲んだ。僕はウィスキーを飲み、緑はわけのわからないカクテルを三、四杯飲んだ。店を出ると木のぼりしたいと緑が言いだした。 「このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ木になんてのぼれないよ」と僕は言った。 「あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるのね。酔払いたいから酔払ってるのよ。それでいいんじゃない。酔払ったって木のぼりくらいできるわよ。ふん。高い高い木の上にのぼっててっぺんから蝉みたいにおしっこしてみんなにひっかけてやるの」 「ひょっとして君、トイレに行きたいの?」 「そう」 僕は新宿駅の有料トイレまで緑をつれていって小銭を払って中に入れ、売店で夕刉を買ってそれを読みながら彼女が出てくるのを待った。でも緑はなかなか出てこなかった。十亓分たって、僕が心配になってちょっと様子を見に行ってみようかと思う頃にやっと彼女が外に出てきた。顔色はいくぶん白っぽくなっていた。 「ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの」と緑は言った。 「気分はどう?」と僕はコートを着せてやりながら訊ねた。 「あまり良くない」 「家まで送るよ」と僕は言った。「家に帰ってゆっくり風呂にでも入って寝ちゃうといいよ。疲れてるんだ」「家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなところで一人で寝たくなんかないもの」「やれやれ」と僕は言った。「じゃあどうするんだよ?」 「このへんのラブ?ホテルに入って、あなたと二人で抱きあって眠るの。朝までぐっすりと。そして朝になったらどこかそのへんでごはん食べて、二人で一緒に学校に行くの」 「はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの?」 「もちろんよ」 「そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考えたってそれがまともじゃないか。恋人なんてそのためにいるんだ」 「でも私、あなたと一緒いたいのよ」 「そんなことはできない」と僕はきっぱりと言った。「まず第一に僕は十二時までに寮に戻らないといけないんだ。そうしないと無断外泊になる。前に一回やってすごく面倒なことになったんだ。第二に僕だって女の子と寝れば当然やりたくなるし、そういうの我慢して悶々とするのは嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれないよ。」 「私のことぶって縛ってうしろから犯すの?」 「あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの」 「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなたには悪いと思うわよ。何も与えないでいろんなこと要求ばかりして。好き放題言ったり、呼びだしたり、ひっぱりまわしたり、でもね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかしないのよ。これまでの二十年間の人生で、私ただの一度もわかままきいてもらったことないのよ。お父さんもお母さんも全然とりあってくれなかったし、彼だってそういうタイプじゃないのよ。私がわがまま言うと怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのってあなたにしか言えないのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛いとかきれいだとか言われながら眠りたいの。ただそれだけなの。目がさめたらすっかり元気になって、二度とこんな身勝手なことあなたに要求しないから。絶対。すごく良い子にしてるから」 「そう言われても困るんだよ」と僕は言った。 「お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして最初に声かけてきた人と寝ちゃうわよ」僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼んでもらった。そして僕が帰寮しているように操作してもらえないだろうかと頼んでみた。ちょっと女の子と一緒なんですよ、と僕は言った。いいよ、そういうことなら喜んで力になろうと彼は言った。 「名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆっくりやってこいよ。明日の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃいい」と彼は言った。 「どうもすみません。恩に着ます」と僕は言って電話を切った。 「うまく行った?」と緑は訊いた。 「まあ、なんとか」と僕は深いため息をついた。 「じゃあまだ時間も早いことだし、ディスコでも行こう」 「君疲れてるんじゃなかったの?」 「こういうのなら全然大丈夫なの」 「やれやれ」と僕は言った。 たしかにディスコに入って踊っているうちに緑は尐しずつ元気を回復してきたようだった。そしてウィスキー?コークを二杯飲んで、額に汗をかくまでフロアで踊った。 「すごく楽しい」と緑はテーブル席でひと息ついて言った。「こんなに踊ったの久しぶりだもの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみたい」 「君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね」 「あら、そんなことないのよ」と彼女はにっこりと首をかしげて言った。「それはそうと元気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツァでも食べに行かない?」 僕がよく行くピツァ?ハウスに彼女をつれていって生ビールとアンチョビのピツァを注文した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピースのうち四つだけを食べ、残りを緑が全部食べた。 「ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらしてたのに」と僕はあきれて言った。 「わがままが聞き届けられたからよ」と緑は言った。「それでつっかえがとれちゃったの。でもこのピツァおいしいわね」 「ねえ、本当に君の家、今誰もいないの?」 「うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってていないわよ。彼女ものすごい怖がりだから、私がいないとき独りで家で寝たりできないの」 「ラブ?ホテルなんて行くのはやめよう」と僕は言った。「あんなところ行ったって空しくなるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだろう?」 緑は尐し考えていたが、やがて肯いた。「いいわよ。家に泊ろう」と彼女は言った。 僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のシャッターを上げた。シャッターには「休業中」の紙が貼ってあった。シャッターは長いあいだ開けられたことがなかったらしく、暗い店内には古びた紙の匂いが漂っていた。棚の半分は空っぽで、雑誌は殆んど全部返品用に紐でくくられていた。最初に見たときより店内はもっとがらんとして寒々しかった。まるで海岸打ち捨てられた廃船のように見えた。 「もう店をやるつもりはないの?」と僕は訊いてみた。 「売ることにしたのよ」と緑はぽつんと言った。「お店売って、私とお姉さんとでそのお金をわけるの。そしてこれからは誰に保護されることもなく身ひとつで生きていくの。お姉さんは来年結婚して、私はあと三年ちょっと大学に通うの。まあそれくらいのお金にはなるでしょう。アルバイトもするし。店が売れたらどこかにアパートを借りてお姉さんと二人でしばらく暮すわ」 「店は売れそうなの?」 「たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がいて、尐し前からここを売らないかって話があったの」と緑は言った。「でも可哀そうなお父さん。あんなに一所懸命働いて、店を手に入れて、借金を尐しずつ返して、そのあげく結局は殆んど何も残らなかったのね。まるであぶくみたいい消えちゃったのね」 「君が残ってる」と僕は言った。 「私?」と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸って吐きだした。「もう上に行きましょう。ここ寒いわ」 二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ僕はやかんにお湯をわかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑は食卓で向いあってお茶を飲んだ。彼女は頬杖をついてしばらくじっと僕の顔を見ていた。時計のコツコツという音と冷蔵庫のサーモスタットが入ったり切れたりする音の他には何も聞こえなかった。時計はもう十二時近くを指していた。 「ワタナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね」と緑は言った。 「そうかな」と僕は尐し傷ついて言った。 「私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく見ているとだんだんまあこの人でもいいやって気がしてくるのね」 「僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって」 「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表わすことができないのよ。だからしょっちょう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだってこと。これさっき言ったかしら?」「言った」と僕は言った。 「つまり私も尐しずつ男の人のことを学んでいるの」 緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。「最初がゼロだといろいろ学ぶこと多いわね」 「だろうね」と僕は言った。 「あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる?」と緑が言った。僕は彼女のあとをついて仏壇のある部屋に行って、お線香をあげて手をあわせた。 「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これオッパイよ、これオマンコよって」と緑は言った。 「なんでまた?」といささか唖然として質問した。 「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって。まあいささか酔払っていたせいはあるけれど」 「ふむ」 「お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの遺影の前で裸になって股広げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよね」 「まあ、そうだろうね」 「それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなのよ、だからモモちゃんも私の隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見せてあげようって。でも彼女やんなかったわ。あきれて向うに行っちゃったの。そういうところすごく保守的なの」 「比較的まともなんだよ」と僕は言った。 「ねえ、ワタナベ君はお父さんのことどう思った?」 「僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になっても苦痛は感じなかったね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし」 「どんな話したの?」 「エウリビデス」 緑はすごく楽しそうに笑った。「あなたって変ってるわねえ。死にかけて苦しんでいる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっといないわよ」 「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。 緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。「お父さん、おやすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょ?もう死んじゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ」 我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が尐しだけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敶いてくれた。 「仏壇の前だけど怖くない?」と緑は訊いた。 「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。 「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?」 「いいよ」 僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枞をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。 「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。 「どんなこと?」 「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」 「すごく可愛いよ」 「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」 「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。 「すごくってどれくらい?」 「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」 緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」 「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。 「もっと素敵なこと言って」 「君が大好きよ、ミドリ」 「どれくらい好き?」 「春の熊くらい好きだよ」 「春の熊?」と緑はまた頭を上げた。「それ何よ、春の熊って?」 「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」 「すごく素敵」 「それくらい君のことが好きだ」 緑は僕の胸にしっかり抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよね?」 「もちろん」 「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」 「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」 「でも怖いのよ、私」と緑は言った。 僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきものは一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。 しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなものは尐なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読むものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマン?ヘッセの『車輪の下』を選び、その分の金をレジスターのわきに置いた。尐くともこれで小林書店の在庫は尐し減ったことになる。 僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って『車輪の下』を読みつづけた。最初に『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれなかったら、僕は『車輪の下』なんてまず読みかえさなかっただろう。 でも『車輪の下』はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディーが一本あったので、それを尐しコーヒー?カップに注いで飲んだ。ブラディーは体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。 三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。 ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコートが椅子の背にかけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌーピーのカレンダーがかかっていた。僕は窓のカーテンを尐し開けて、人気のない商店街を見下ろした。どの店もシャッターを閉ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブラディーをもう一杯飲み、そして『車輪の下』を読みつづけた。 その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかしてインスタント?コーヒーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙を書いた。ブラディーをいくらかもらった、『車輪の下』を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、と僕は書いた。そして尐し迷ってから、「眠っているときの君はとても可愛い」と書いた。それから僕はコーヒー?カップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシャッターを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の部屋の淡いピンクのカーテンのかかった窓を尐し見上げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。 「コーヒーでも飲むか?」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。 * 僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙にはあった。 「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさんとよくあなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レイコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いものです。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。 ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みます。そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数尐ない娯楽のひとつとして――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽しみにしています。 私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができないのです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。 ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言ったら、『あたり前じゃない、私だってワタナベ君のこと好きよ』ということでした。私たちは毎日キノコをとったり栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけています。鳥もウサギも元気です。さよなら」 * 僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られてきた。中には葡萄色の丸首のセーターと手紙が入っていた。 「お誕生日おめでとう」と直子は書いていた。「あなたの二十歳が幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。このセーターは私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレンタイン?デーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で」 レイコさんからの短いメッセージも入っていた。 「元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにセーターは仕上げました。どう、素敵でしょう?色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう」 第十章 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泤土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。 時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。ジョン?コルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。 僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバイトをし、時折『グレート?ギャツピイ』を読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに 2DK のアパートを借りて二人で住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパートを借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパートで、緑も小林書店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。 永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原のまん中で僕を尃精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。 僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。 大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス?カントリー?スキーをした。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食のテーブルにやってきて「どうして手の中指は人さし指より長く、足の方は逆なのか」について教えてくれた。門番の大村さんはまた東京の豚肉の話をした。レイコさんは僕が土産がわりに持っていたレコードをとても喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてギターで弾いた。秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口をきかないでソファーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。そのぶんレイコさんがしゃべった。「でも気にしないで」と直子は言った。「今こういう時期なの。しゃべるより、あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの」 レイコさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドで抱きあった。僕は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。尃精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマスターペーションしてた、と。 「他の誰とも寝なかったの?」と直子が訪ねた。 「寝なかったよ」と僕は言った。 「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの尃精をした。 「覚えていられる?」とそのあとで直子が僕に訊ねた。 「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を入れてヴァギナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせた。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。 「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言った。「寮暮らしもだんだんうんざりしてきたし、まあアルバイトすれば生活費の方はなんとかなると思うし。それで、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように」 「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。 「ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶんないし、レイコさんは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるにはこの場所はちょっと特殊すぎる。長くいればいるほどここから出にくくなってくると思うんだ」 直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見えなかった。雪雲がどんよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあいだにはほんの尐しの空間しかあいていなかった。 「ゆっくり考えればいいよ」と僕は言った。「いずれにせよ僕は三月までには引越すから、君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいいから来ればいいよ」 直子は肯いた。僕は壊れやすいガラス細工を持ち上げるときのように両腕で直子の体をそっと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸で、彼女は小さな白い下着だけを身に着けていた。彼女の体は美しく、どれだけ見ていても見飽きなかった。 「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」 「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」 「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」 「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と僕は言った。 直子はベッドの上で身を起こして、T シャツを頭からかぶり、フランネルのシャツを着て、ブルージーンズをはいた。僕も服を着た。 「ゆっくり考えさせてね」と直子は言った。「それからあなたもゆっくり考えてね」 「考えるよ」と僕は言った。「それから君のフェラチオすごかったよ」 直子は尐し赤くなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」 「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。 そして我々は台所でテーブルをはさんで、コーヒーを飲みながら昔の話をした。彼女は尐しずつキズキの話ができるようになっていた。ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼女は話した。雪は降ったりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三月に来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いコートの上から彼女を抱いて、口づけした。さよなら、と直子が言った。 * 一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年末のテストがあって、僕は比較的楽にそれをパスした。他にやることもなくて殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特別な勉強をしなくても試験をパスするくらい簡卖なことだった。寮内ではいくつかトラブルがあった。セクトに入って活動している連中が寮内にヘルメットや鉄パイプを隠していて、そのことで寮長子飼いの体育会系の学生たちとこぜりあいがあり、二人が怪我をして六人が寮を追い出された。その事件はかなりあとまで尾をひいて、毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっと重苦しい空気が漂っていて、みんながピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体育会系の連中に殴られそうになったが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせよ、この寮を出る頃合だった。試験が一段落すると僕は真剣にアパートを探しはじめた。そして一週間かけてやっと吉祥寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいささか悪かったが、ありがたいことには一軒家だった。まあ掘りだしものと言ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか庭番小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあいだにはかなり荒れた庭が広がっていた。家主は表口を使い、僕は裏口を使うからプライヴァシーを守ることもできた。一部屋と小さなキッチンと便所、それに常識ではちょっと考えられないくらい広い押入れがついていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかしたら孫が東京に出てくるかもしれないので、そのときは出ていくのは条件で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かった。家主は気の好さそうな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさいと言ってくれた。 引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラックを借りてきて僕の荷物を運び、約束どおり冷蔵庫と TV と大型の魔法瓶をプレゼントしてくれた。僕にとってはありがたいプレゼントだった。その二日後に彼も寮を出て三田のアパートに引越すことになっていた。 「まあ当分会うこともないと思うけど元気でな」と別れ際に彼は言った。「でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がするんだ」 「楽しみにしてますよ」と僕は言った。 「ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方が良かった」 「同感ですね」と僕は笑って言った。「でも永沢さん、ハツミさんのこと大事にしたほうがいいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやすいから」 「うん、それは知ってるよ」と彼は肯いた。「だから本当を言えばだな、俺のあとをワタナベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前とハツミならうまくいくと思うし」 「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。 「冗談だよ」と永沢さんは言った。「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お前も 相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」 「いいですよ」 「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下务な人間のやることだ」 「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。 * 引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、寮のごたごたからぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれないで済むんだと思うととても嬉しくてホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。 「窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として使われています。僕は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めています。いったい何匹いるのかわからないけれど、とにかく沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをしています。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことはあまり気に入らないようですが、古いチーズをおいてやると何匹かは近くに寄ってきておそるおそる食べました。そのうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫がいるのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっくりするくらいよく似ています。今にも庭で国旗を上げ始めるんじゃないかという気がするくらいです。 大学からは尐し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講義もずっと尐なくなるし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっくり本を読めるからかえって良いかもしれません。あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほどきつくないアルバイトの口を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻ることができます。 僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何かを新しく始めるには都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住むことができるとしたら、それがいちばん良いじゃないかなという気がします。うまくいけば君も大学に復学できるし。一緒に住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにアパートを探すことも可能です。いちばん大事なことは我々がいつもすぐ近くにいることができるということです。もちろんとくに春という季節にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、夏でオーケーです。問題はありません。それについて君がどう思っているか、返事をくれませんか? 僕はこれから尐しまとめてアルバイトをしようかと思っています。引越しの費用を稼ぐためです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金がかかります。鍋やら食器やらも買い揃えなくちゃなりませんしね。でも三月になれば暇になるし、是非君に会いに行きたい。都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京都に行こうと思います。君に会えることを楽しみにして返事を待っています」 それから二、三日、僕は吉祥寺の町で尐しずつ雑貨を買い揃え、家で簡卖な食事を作りはじめた。近所の材木店で材木を買って切断してもらい、それで勉強机を作った。食事もとりあえずはそこで食べることにした。棚も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半年くらいの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べるようになった。僕はその猫に「かもめ」という名前をつけた。 一忚それだけの体裁が整うと僕は町に出てペンキ屋のアルバイトを見つけ二週間ぶっとおしでペンキ屋の助手として働いた。給料は良かったが大変な労働だったし、シンナーで頭がくらくらした。仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビールを飲み家に帰って猫と遊び、あとは死んだように眠った。二週間経っても直子からの返事は来なかった。 僕はペンキを塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみれば僕はもう三週間近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知らせていなかったのだ。そろそろ引越ししようかと思うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりなのだ。 僕は公衆電話に入って緑のアパートの番号をまわした。お姉さんらしい人が出て僕が名前を告げると「ちょっと待ってね」と言った。しかしいくら待っても緑は出てこなかった。 「あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだって」とお姉さんらしい人が言った。「引越すときあなたあの子に何の連絡もしなかったでしょう?行き先も教えずにぷいといなくなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってるのよ。あの子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同じだから」 「説明するから出してもらえませんか」 「説明なんか聞きたくないんだって」 「じゃあちょっと今説明しますから、申しわけないけど伝えてもらえませんか、緑さんに」 「嫌よ、そんなの」とお姉さんらしい人は突き放すように言った。「そういうことは自分で説明しなさいよ。あなた男でしょ?自分で責任持ってちゃんとやんなさい」 仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理はないと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い出しもしなかった。僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわりのことが全く目に入らなくなってしまうのだ。 そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週間も連絡してこなかったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶん僕は傷ついただろう。それもけっこう深く傷ついただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、ある部分ではそれ以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思うとひどく切ない気持になった。他人の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷つけるというのはとても嫌なものだった。 僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕は自分の思っていることを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、自分が不注意で無神経であったことを詫びた。君にとても会いたい。新しい家も見に来てほしい。返事を下さい、と書いた。そして速達切手を貼ってポストに入れた。 しかしどれだけ待っても返事は来なかった。 奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を待ちつづけていた。旅行にも行けず、帰省もできず、アルバイトもできなかった。何日頃に会いに来て欲しいという直子からの手紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て二本立ての映画をみたり、ジャズ喫茶で半日、本を読んでいた。誰とも会わなかったし、殆んど誰とも口をきかなかった。そして週に一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事のことには触れなかった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペンキ屋の仕事のことを書き、「かもめ」のことを書き、庭に桃の花のことを書き、親切な豆腐屋のおばさんと意地のわるい惣菜屋のおばさんのことを書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて書いた。それでも返事はこなかった。 本を読んだり、レコードを聴いたりするのに飽きると、僕は尐しずつ庭の手入れをした。家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを借り、雑草を抜き、ぼうぼうにのびた植込みを適当に刈り揃えた。尐し手を入れだだけで庭はけっこうきれいになった。そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませんか、と言った。僕は母屋の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからしばらく保険会社の役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮らしているのだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独立してしまったし、何をせずとものんびりと老後を送れるのだと言った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をするのだ、と。 「いいですね」と僕は言った。 「よかないよ」と彼は言った。「旅行なんてちっとも面白くないね。仕事してる方がずっと良い」 庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろくなのがいないからで、本当は自分が尐しずつやればいいのだが最近鼻のアレルギーが強くなって草をいじることができないのだということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると彼は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この中にあるのは全部不用品みたいなものだから使いたいものがあったらなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供用プールから野球のバッドまであった。僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子を二脚と鏡とギターをみつけて、もしよかったらこれだけお借りしたいと言った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。 僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、タイヤに空気を入れ、ギヤを調整し、自転車屋でクラッチ?ワイヤを新しいものにとりかえてもらった。それで自転車は見ちがえるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほこりを落としてからニスを塗りなおした。ギターの弦も全部新しいものに替え、板のはがれそうになっていたところは接着剤でとめた。錆もワイヤ?ブラシできれいに落とし、ねじも調節した。たいしたギターではなかったけれど、一忚正確な音は出るようになった。考えて見ればギターを手にしたのなんて高校以来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフターズの『アップ?オン?ザ?ルーフ』を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不思議にまだちゃんと大体のコードを覚えていた。 それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペンキを塗り名前を書いて戸の前に立てておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便物といえば転送されてきた高校のクラス会の通知だけだったし、僕はたとえ何があろうとそんなものにだけは出たくなかった。何故ならそれは僕とキズキのいたクラスだったからだ。僕はそれをすぐに屑かごに放り込んだ。 四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレイコさんからのものだった。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあった。僕ははさみできれいに封を切り、縁側に座ってそれを読んだ。最初からあまり良い内容のものではないだろうという予感はあったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。 はじめにレイコさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子はあなたに返事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、どうしても書きあげることができなかった。私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、それでこんなに遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほしい、と彼女は書いていた。 「あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもしれませんが、直子にとってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったのです。それはわかってあげて下さい。正直に言って今の彼女の状況はあまり好ましいものではありません。彼女はなんとか自分の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結果は出ていません。 考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわりか、十二月の始めころからです。それから幻聴が尐しずつ始まりました。彼女が手紙を書こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回目の訪問までは、こういう症状も比較的軽度のものだったし、私も正直言ってそれほど深刻には考えていませんでした。私たちにはある程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。でもあなたが帰ったあとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいました。彼女は今、日常会話するのにもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱しています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。 私たちは毎日専門医をまじえてセッションをしています。直子と私と医師の三人でいろんな話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。私はできることならあなたを加えたセッションを行いたいと提案し、医者もそれには賛成したのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝えると『会うときは綺麗な体で彼に会いたいから』というのがその理由です。問題はそんなことではなく一刻も早く回復することなのだと私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変りませんでした。 前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありません。もちろんちゃんとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中的な治療をすることは困難です。ここの施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治療は正確にはそこには含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化するようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。私としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても治療のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。あるいはうまくいけばそのまま完治して退院ということになるかもしれませんね。いずれにせよ私たちも全力を尽くしていますし、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を祈っていて下さい。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。三月三十一日 石田玲子 」 手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を眺めた。庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわらかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。尐しすると「かもめ」がどこからやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに体をのばして眠ってしまった。 何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからなかった。それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえない時がやってくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。尐なくとも今は何も考えたくはない。 僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで体中の力が抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が庭を包んだ。「かもめ」はもうどこかに姿を消したしまっていたが、僕はまだ桜の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。どうしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子をそっとしておいてくれないのだ? 僕は部屋に入って窓のカーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちていた。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐臭だけだった。僕はカーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にもたらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。 それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼はそれを聞きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったような感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかしそれと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こういう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。 僕は壁にもたれてぼんやりと天五を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをかじり、水を飲み、哀しくなるとウィスキーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そんな風にして三日が過ぎた。 四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日に大学の中庭で待ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてやったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやはり淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、彼女の言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているのだ、いったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接点をうまく見つけることができなかった。どうして「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあいこ」なのだ?何故彼女は僕と「お昼ごはん」を食べようとしているのだ?なんだか僕の頭までおかしくなるつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自分に同情するな」という永沢さんの言葉を突然思いだした。「自分に同情するのは下务な人間のやることだ」やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上がった。 僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、買物をしてきちんとした食事を作って食べ、腹を減らせた「かもめ」に餌をやり、ビール以外の酒を飲まず、体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそりとやせてしまったことがわかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他人の顔みたいだった。 翌朝僕は自転車に乗って尐し遠出をし、家に戻って昼食を食べてから、レイコさんの手紙をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どういう風にやっていけばいいのかを腰を据えて考えて見た。レイコさんの手紙を読んで僕が大きなショックを受けた最大の理由は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されてしまったことにあった。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レイコさんも何か起るかはわからないわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくなりつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり戻すことだという風に思っていたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二人で力をあわせてきっとうまくやっていけるだろうと。 しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレイコさんの手紙によってあっという間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平面が残っているだけだった。僕はなんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直子がもう一度回復するには長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したときの彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい状況に自分を適忚させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全てが解決するわけではないということはよくわかっていたが、いずれにせよ僕にできることと言えば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづけるしかない。 おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の尐年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。 「ねえ、どうしたのよ、ワタナベ君?」と緑は言った。「ずいぶんやせちゃったじゃない、あなた?」 「そうかな?」と僕は言った。 「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」 僕は笑って首を振った。「去年の十月の始めから女と寝たことなんて一度もないよ」 緑はかすれた口笛を吹いた。「もう半年もあれやってないの?本当?」 「そうだよ」 「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」 「大人になったからだよ」と僕は言った。 緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく顔をしかめて、やがてにっこり笑った。「本当だ。たしかに何か尐し変ってるみたい、前に比べて」 「大人になったからだよ」 「あなたって最高ね。そういう考え方できるのって」と彼女は感心したように言った。「ごはん食べに行こう。おなか減っちゃったわ」 我々は文学部の裏手にある小さなレストランに行って食事をすることにした。僕はその日のランチの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。 「ねえ、ワタナベ君、怒ってる?」と緑が訊いた。 「何に対して?」 「つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そういうのっていけないことだと思う?あなたの方はきちんと謝ってきたのに?」 「僕の方が悪かったんだから仕方ないさ」と僕は言った。 「お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容で、あまりにも子供じみてるって」 「でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?」 「うん」 「じゃあそれでいいじゃないか」 「あなたって本当に寛容なのね」と緑は言った。「ねえ、ワタナベ君、本当にもう半年もセックスしてないの?」「してないよ」と僕は言った。 「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃない?」 「まあ、そうだろうね」 「でもやらなかったのね?」 「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないからね」と僕は言った。 「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参ってたから」 「でも僕のは固くて大きいよ」 彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。「私、尐し前からあなたのこと信じようって決めたの。百パーセント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってたでしょう?私」 「うん。たしかに」と僕は言った。 「そうしてね、もし逆にあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかもうまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激してるとかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直にあなたに伝えたかっただけなのよ」 「わかってるよ」と僕は言った。 我々はランチを食べながら課目登録のカードを見せあって、二つの講義を共通して登録していることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせることになる。それから彼女は自分の生活のことを話した。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあいだアパート暮しになじめなかった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比べてあまりにも楽だったからだ。自分たちは誰かの看病をしたり、店を手伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れてしまっていたのだ、と緑は言った。 「でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ」と緑は言った。「これが私たち自身のための本来の生活なんだって。だから誰かに遠慮することもなく思う存分手足をのばせばいいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、三センチ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実の人生として存在するわけないといった気がしていたの。今にどんでん返しがあるに違いないって二人で緊張してたの」 「苦労性の姉妹なんだね」と僕笑って言った。 「これまでが過酷すぎたのよ」と緑は言った。「でもいいの。私たち、そのぶんをこれから先でしっかりとり戻してやるの」 「まあ君たちならやれそうな気がするな」と僕は言った。「お姉さんは毎日何をしてるの?」 「彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリーのお店始めたんで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートしたり、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」 彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫のかもめやら家主のことやらを話した。「楽しい?」 「悪くないね」と僕は言った。 「でもそのわりに元気がないのね」 「春なのにね」と僕は言った。 「そして彼女が編んでくれた素敵なセーター着てるのにね」 僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセーターに目をやった。「どうしてそんなことはわかったのかな?」「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあきれたように言った。「でも元気がないのね」 「元気を出そうとしているんだけれど」 「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」 僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」 「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」 「まあひとつの哲学ではあるな」 「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。 コーヒーを飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店に入ってきて、緑と三人で課目登録カードを見せあい、昨日のドイツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。僕はコーヒーを飲みながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕はまた尐しぼんやりとした気分になってきた。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のことを思った。窓際にはアネモネの花をさした小さなグラスが置いてあった。 女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテーブルに戻ってしまうと、緑と僕は店を出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊か買い、また喫茶店に入ってコーヒーを飲み、ゲーム?センターでピンボールをやり、公園のベンチに座って話をした。だいたいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉が乾いたと緑が言って、僕は近所の菓子屋でコーラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女はレポート用紙にボールペンでこりこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわよと彼女は答えた。 三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち合わせしてるの、と言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。別れ際に緑は僕のコートのポッケトに四つに折ったレポート用紙をつっこんだ。そして家に帰ってから読んでくれと言った。僕はそれを電車の中で読んだ。 「前略。 今あなたがコーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。ベンチの隣りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としてもはじめてのことです。でもそうでもしないことには私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませんから。だって私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょう? ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の髪型が変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?私尐しずつ苦労して髪をのばしてやっと先週の終りになんとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あなたそれにすら気がつかなかったでしょう?なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思ったのに、気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですか?どうせあなたが私がどんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。いくら考え事をしているからといっても、尐しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何してたってどれだけ考えごとしてたって、私あなたのことを許したのに。 だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせているなんて嘘です。私は今日あなたの家に泊るつもりでパジャマまで持ってきたんです。そう、私のバッグの中にはパジャマと歯ブラシが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家においでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなたは私のことなんかどうでもよくて一人になりたがってるみたいだから一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを心ゆくまで考えていなさい。 でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありません。私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもと戻ってしまうみたいです。 今コーラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いているみたいで、転べばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あなたは今隣りに座ってごくごくとコーラを飲んでいます。コーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変ったんだね』と気がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたらこんな手紙びりびりと破って、『ねえ、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう』って言えたのに。でもあなたは鉄板みたいに無神経です。さよなら。 P.S. この次教室で会っても話かけないで下さい」 吉祥寺の駅から緑のアパートに電話をかけてみたが誰も出なかった。とくにやることもなかったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通いながらやれるアルバイトの口を探してみた。僕は土?日が一日あいていて、月?水?木は夕方の亓時から働くことができたが、僕のそんなスケジュールにぱったりと合致する仕事というのはそう簡卖に見つからなかった。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするついでにまた緑に電話をかけてみた。お姉さんが電話に出て、緑はまだ帰ってないし、いつ帰るかはちょっとわからないと言った。僕は礼を言って電話を切った。 夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書けなかったので、結局直子に手紙を書くことにした。 春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会えなくてとても淋しい、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、話がしたかった。しかしいずれにせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように思えるからだ、と僕は書いた。 「それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどうでもいいことかもしれないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたときのことを忘れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要なことなのです。僕はいつもあのときのことを考えています」 僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれをじっと眺めていた。いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその方が相手に意がうまく伝わるだろうという気がした。僕はグラスに三センチくらいウィスキーを注ぎ、それをふた口で飲んでから眠った。 * 翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのアルバイトをみつけた。それほど大きくないイタリア料理店のウェイターの仕事で、条件はまずまずだったが、昼食もついたし、交通費も出してくれた。月?水?木の遅番が休みをとるときは――彼らはよく休みをとった――かわりに出勤してくれてかまわないということで、それは僕としても好都合だった。三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週の土曜日から来てほしいとマネージャーが言った。新宿のレコード店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんとしたまともそうな男だった。緑のアパートに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと戻ってないし、こちらが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだろうかと疲れた声で訊いた。僕が知っているのは彼女がバッグにパジャマと歯ブラシを入れていたということだけだった。 水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色のセーターを着て、夏によくかけていた濃い色のサングラスをかけていた。そしていちばんうしろの席に座って、前に一度見かけたことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕はそこに行って、あとで話がしたいんだけどと緑に言った。眼鏡をかけた女の子がまず僕を見て、それから緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいスタイルになっていた。いくぶん大人っぽくも見えた。 「私、約束があるの」と緑は尐し首をかしげるようにして言った。 「そんなに時間とらせない。亓分でいいよ」と僕は言った。 緑はサングラスをとって目を細めた。なんだか百メートルくらい向うの崩れかけた廃屋を眺めるときのような目つきだった。「話したくないのよ。悪いけど」 眼鏡の女の子が<彼女話したくないんだって、悪いけど>という目で僕を見た。 僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き(テネシー?ウィリアムズの戯曲についての総論。そのアメリカ文学における位置)、講義が終わるとゆっくり三つ数えてからうしろを向いた。緑の姿はもう見えなかった。四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわりの人々はみんな幸せそうに見えた。人々はコートを脱ぎ捨て、明るい日だまりの中でおしゃべりをしたり、キャッチボールをしたり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一人ぼっちだった。直子も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離れていってしまった。そして今の僕には「おはよう」とか「こんにちは」を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさえ僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。何度か緑に話かけてみたが、返ってくる返事はいつも同じだった。今話したなくないのと彼女は言ったし、その口調から彼女が本気でそう言っていることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼鏡の女の子といたし、そうでないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の長い男で、いつも白いバスケットボール?シューズをはいていた。四月が終わり、亓月がやってきたが、亓月は四月よりもっとひどかった。亓月になると僕は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけにはいなかった。そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるような淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなとき僕はじっと目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残していた。 そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いことや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえしてみると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きているのだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレイコさんからも手紙は来なかった。 アルバイト先のレストランで僕は伊東という同じ年のアルバイト学生と知り合ってときどき話をするようになった。美大の油絵科にかよっているおとなしい無口な男で話をするようになるまでにずいぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の店でビールを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きで、僕らはだいたいそんな話をした。伊東はほっそりとしたハンサムな男で、その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あまり多くを語らなかったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランスの小説が好きでジョルジェ?バタイユとポリス?ヴィアンを好んで読み、音楽ではモーツァルトとモーリス?ラヴェルをよく聴いた。そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めていた。 彼は一度僕を自分のアパートに招待してくれた。五の頭公園の裏手のあるちょっと不思議なつくりの平屋だてのアパートで、部屋の中は画材やキャンパスでいっぱいだった。絵を見たいと僕は言ったが、恥ずかしいものだからと言って見せてくれなかった。我々は彼が父親のところから黙って持ってきたシーバス?リーガルを飲み、七輪でししゃもを焼いて食べ、ロベール?カサドゥシェの弾くモーツァルトのピアノ?コンチェルトを聴いた。 彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長崎に帰るたびに彼女と寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、と言った。 「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。「二十歳とか二十一になると急にいろんなことを具体的に考えはじめるんだ。すごく現実的になりはじめるんだ。するとね、これまですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ」 「どうするんだい?」と僕も訊いてみた。 彼はししゃもをかじりながら頭を振った。「どうするったって、どうしようもないよ、油絵科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もアブラになんて行かないさ。だってそんなところ出たってまず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って美術の先生になれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなんだよ。やれやれ」 「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?」 「まあそうなんだろうな」と伊東は認めた。「それに僕は美術の教師なんかなりたくないんだ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわるい中学生に絵を教えて一生を終えたくないんだよ」 「それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お互いのために」と僕は言った。 「僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒になる気でいるんだもの。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せないよ」 僕らは氷を入れずストレートでシーバスを飲み、ししゃもがなくなってしまうと、キウリとセロリを細長く切って味噌をつけてかじった。キウリをぽりぽりと食べていると亡くなった緑の父親のことを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほど味気のないものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知らないうちに僕の中で彼女の存在がどんどん膨らんでいたのだ。 「君には恋人いるの?」と伊東が訊いた。 いることはいる、と僕は一呼吸置いて答えた。でも事情があって今は遠く離れているんだ。 「でも気持は通じているんだろう?」 「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。 彼はモーツァルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田舎の人々が山道について熟知しているように、モーツァルトの音楽の素晴らしさを熟知していた。父親が好きで三つの時からずっと聴いてるんだと彼は言った。僕はクラシック音楽にそれほど詳しいわけではなかったけれど、彼の「ほら、ここのところが――」とか「どうだい、この――」といった適切で心のこもった説明を聴きながらモーツァルトのコンチェルトに耳を傾いていると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは五の頭公園の林の上に浮かんだ三日月を眺め、シーバス?リーガルを最後の一滴まで飲んだ。美味い酒だった。 伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って断り、ウィスキーの礼を言って九時前に彼のアパートを出た。そして帰りみち電話ボックスに入って緑に電話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。「ごめんなさい。今あなたと話したくないの」と緑は言った。 「それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君との関係を終えたくないんだ。君は本当に数の尐ない僕の友だちの一人だし、君に会えないのはすごく辛い。いつになったら君と話せるのかな?それだけでも教えてほしいんだよ」 「私の方から話しかけるわよ。そのときになったら」 「元気?」と僕は訊いてみた。 「なんとか」と彼女は言った。そして電話を切った。 亓月の半ばにレイコさんから手紙が来た。 「いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読ませてもらっています。いいわよね、読んでも? 長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。正直なところ私もいささか疲れ気味だったし、良いニュースもあまりなかったからです。直子の具合はあまり良くありません。先日神戸から直子のお母さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばらく専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはどうかという合意に達しました。直子もできることならずっとここにいて治したいというし、私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言ってここで彼女をコントロールするのはだんだん困難になってきました。普段はべつになんということもないのですが、ときどき感情がひどく不安定になることがあって、そういうときには彼女から目を離すことはできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があり、直子は全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。 だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるのがいちばん良いだろうと考えています。残念ですが、仕方ありません。前もあなたに言ったように、気長にやるのがいちばんです。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつほぐしていくのです。事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、しばらくじっとして目がその暗闇に慣れるのを待つしかありません。 この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移っているはずです。連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、いろんなことがばたばたと決まってしまったのです。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良い医者もいます。住所を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって下さい。彼女についての情報は私の方にも入ってきますから、何かあったら知らせるようにします。良いニュースが書けるといいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなくてもときどきでいいから私に手紙を下さい。さようなら」 * その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き、レイコさんにも手紙を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き、家の机に向って膝に「かもめ」をのせながら書き、休憩時間にイタリア料理店のテーブルに向って書いた。まるで手紙を書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった。 君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と亓月を送った、と僕は緑への手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験したのははじめてのことだし、これだったら二月が三回つづいた方がずっとましだ。今更君にこんなことをいっても始まらないとは思うけれど、新しいヘア?スタイルはとてもよく君に似合っている。とても可愛い。今イタリア料理店でアルバイトしていて、コックからおいしいスパゲティーの作り方を習った。そのうちに君に食べさせてあげたい。 僕は毎日大学に通って、週に二回か三回イタリア料理店でアルバイトをし、伊東と本や音楽の話をし、彼からボリス?ヴィアンを何冊か借りて読み、手紙を書き、「かもめ」と遊び、スパゲティーを作り、庭の手入れをし、直子のことを考えながらマスタペーションをし、沢山の映画を見た。 緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二ヶ月も口をきいていなかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座って、しばらく頬杖をついて黙っていた。窓の外には雤が降っていた。梅雤どき特有の、風を伴わないまっすぐな雤で、それは何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教室を出ていなくなっても緑はずっとその格好で黙っていた。そしてジーンズの上着のポッケトからマルボロを出してくわえ、マッチを僕の渡した。僕はマッチをすって煙草に火をつけてやった。緑は唇を丸くすぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。 「私のヘア?スタイル好き?」 「すごく良いよ」 「どれくらい良い?」と緑が訊いた。 「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。 「本当にそう思う?」 「本当にそう思う」 彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握った。僕以上に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の灰を床に落としてからすっと立ち上がった。 「ごはん食べに行きましょう。おなかペコペコ」と緑は言った。 「どこに行く?」 「日本橋の高島屋の食堂」 「何でまたわざわざそんなところまで行くの?」 「ときどきあそこに行きたくなるのよ、私」 それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雤が降りつづいていたせいか、デパートの中はがらんとしてあまり人影がなかった。店内には雤の匂いが漂い、店員たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の食堂に行き、ウィンドの見本を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べることにした。昼食どきだったが、食堂もそれほど混んではいなかった。 「デパートの食堂で飯食うなんて久しぶりだね」と僕はデパートの食堂でしかまずお目にかかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶を飲みながら言った。 「私好きよ、こういうの」と緑は言った。「なんだか特別なことをしているような気持になるの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパートに連れてってもらうなんてほんのたまにしかなかったから」 「僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。お袋がデパート行くの好きだったからさ」 「いいわね」 「べつに良くもないよ。デパートなんか行くの好きじゃないもの」 「そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと」 「まあ一人っ子だからね」 「大きくなったらデパートの食堂に一人できて食べたいものをいっぱい食べてやろうと思ったの、子供の頃」と緑は言った。「でも空しいものね、一人でこんなところでもそもろごはん食べたって面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでもないし、ただっ広くて混んでてうるさいし、空気はわるいし。それでもときどきここに来たくなるのよ」 「このニヶ月淋しかったよ」と僕は言った。 「それ、手紙で読んだわよ」と緑は無表情な声で言った。「とにかくごはん食べましょう。私今それ以外のこと考えられないの」 我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、吸い物を飲み、お茶を飲んだ。緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も言わずにすっと立ち上がって傘を手にとった。僕も立ち上がって傘を持った。「これからどこに行くの?」と僕は訊いてみた。 「デパートに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まってるでしょう」と緑は言った。 雤の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の姿はなく、売店も、乗り物切符売り場もシャッターを閉ざしていた。我々は傘をさしてぐっしょりと濡れた木馬やガーデン?チェアや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中にこんなに人気のない荒涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見たいというので、僕は硬貨を入れてやり、彼女が見ているあいだずっと傘をさしてやっていた。 屋上の隅の方に屋根のついたゲーム?コーナーがあって、子供向けのゲーム機がいくつか並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなものの上に並んで腰を下ろし、二人で雤ふりを眺めた。 「何か話してよ」と緑が言った。「話があるんでしょ、あなた?」 「あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんやりしてたんだ。それでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ」と僕は言った。「でも君と会えなくなってよくわかったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだってね。君がいなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」 「でもあなた知らないでしょ、ワタナベ君?あなたと会えないことで私がこのニヶ月どれほど辛くて淋しい想いをしたかということを?」 「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。「君は僕のことを頭にきていて、それで会いたくないんだと思ってたんだ」 「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まってるでしょう?だって私あなたのこと好きだって言ったでしょう?私そんなに簡卖に人を好きになったり、好きじゃなくなったりしないわよ。そんなこともわかんないの?」 「それはもちろんそうだけど――」 「そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だって久し振りに会ったっていうのにあなたはボオッとして他の女の人のことを考えて私のことなんか見ようともしないんだもの。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなたと尐し離れていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。いろんなことをはっきりさせるためにも」 「いろんなことって?」 「私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだんだん楽しくなってきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然だし具合わるいと思わない?もちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多尐わかままで偏狭でファシストだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好きになった人だしね。でもね、あなたってなんだか特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感じするの。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに自分でもだんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直に相談したの。どうしたらいいだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もしあなたと会うなら俺と別れろって」 「それでどうしたの?」 「彼と別れたよ、さっぱりと」と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆うようにしてマッチで火をつけ、煙を吸いこんだ。 「どうして?」 「どうして?」と緑は怒鳴った。「あなた頭おかしいんじゃないの?英語の仮定法がわかって、数列が理解できて、マルクスが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそんなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだからにきまってるでしょ。私だってね、もっとハンサムな男の子好きになりたかったわよ。でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから」 僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうまく出てこなかった。 緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲しくなっちゃうから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知ってるから別に何も期待しないわよ。でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?私だってこのニヶ月本当に辛かったんだから」 我々はゲーム?コーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、唇を求めあった。彼女の髪にも、ジーンズのジャケットの襟にも雤の匂いがした。女の子の体ってなんてやわらかくて温かいんだろうと僕は思った。ジャケット越しに僕は彼女の乳房の感触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間に触れたような気がした。 「あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。そして別れたの」と緑は言った。 「君のこと大好きだよ」と僕は言った。「心から好きだよ。もう二度と放したくないと思う。でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないんだ」 「その人のことで?」 僕は肯いた。 「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?」 「一年前に一度だけね」 「それから会わなかったの?」 「二回会ったよ。でもやってない」と僕は言った。 「それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?」 「僕にはなんとも言えない」と僕は言った。「とても事情が混み入ってるんだ。いろんな問題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当にどうなのかというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかっているのは、それがある種の人間として責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り出すわけにはいかないんだ。尐なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛していないとしても」 「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と緑は僕の首に頬を押し付けて言った。「そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好きだってうちあけているのよ。あなたがこうしろって言えば私なんだってするわよ。私多尐むちゃくちゃなところあるけど正直でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって良いかたちしているし、料理もうまいし、お父さんの遺産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思わない?あなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ」 「時間がほしいんだ」と僕は言った。「考えたり、整理したり、判断したりする時間がほしいんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」 「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるのね?」 「もちろんそう思ってるよ」 緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼してるから」と彼女は言った。「でお私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?」 「よくわかる」 「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」 僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。 「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。 「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」 「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ」僕は傘を足もとに置き、雤の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雤は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィンド?ブレーカーを暗い色に染めた。 「そろそろ屋根のあるところに行かない?」と僕は言った。 「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」 「まったく」 「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言った。「ああ気持良かった」僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパートまで行った。緑はすぐに僕にシャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバスローブを貸してくれ、自分はポロシャツとスカートに着がえた。我々は台所のテーブルでコーヒーを飲んだ。 「あなたのこと話してよ」と緑は言った。 「僕のどんなこと?」 「そうねえ……どんなものが嫌い?」 「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」 「他には?」 「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」 「他には?」 僕は首を振った。「他にはとくに思いつかないね」 「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく短いスカートはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なことあったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃんとあらためるから」 「別に何もないよ」と僕は尐し考えてからそう言って首を振った。「何もない」 「本当?」 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、何でも好きだよ」 「本当にこのままでいいの?」 「どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ」 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。 「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。 「ふうん」と緑は尐し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」 僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雤だれの音を聞きながら布団の中で我々は唇をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固さの好みに至るまでのありとあらゆる話をした。 「雤の日には蟻はいったい何をしているのかしら?」と緑が質問した。 「知らない」と僕は言った。「巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかやってるんじゃないかな。蟻ってよく働くからさ」 「そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままなの?」 「知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つまり猿なんかに比べてさ」 「あなた意外にいろんなこと知らないのね」と緑は言った。「ワタナベ君って、世の中のことはたいてい知ってるのかと思ってたわ」 「世界は広い」と僕は言った。 「山は高く、海は深い」と緑は言った。そしてバスローブの裾から手を入れて僕の勃起しているペニスを手にとった。そして息を呑んだ。「ねえ、ワタナベ君、悪いけどこれ本当に冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌だ」 「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。 「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。「大丈夫よ。安心しなさい。これくらいならなんとかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい?」 「好きにしていいよ」と僕は言った。 緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニスをいじりまわした。皮をひっぱったり、手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと息をついた。「でも私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」 「ありがとう」と僕は素直に礼を言った。 「でもワタナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」 「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」 「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃってから考えるけどな」 「本当にそうする?」 「嘘よ」と緑は小さな声で言った。「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところ好きなの。本当に本当に好きなのよ」 「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。 「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」 「考えてないよ」と僕は嘘をついた。 「本当?」 「本当だよ」 「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」 「考えられないよ」と僕は言った。 「私の胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。 「さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなことやると刺激が強すぎる」 緑は肯いて布団の中でもそもそとパンティーを脱いでそれを僕のペニスの先にあてた。「ここに出していいからね」 「でも汚れちゃうよ」 「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」と緑は泣きそうな声で言った。「そんなの洗えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ。気になるんなら新しいの買ってプレゼントしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの?」 「まさか」と僕は言った。 「じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して」 僕が尃精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。「ずいぶんいっぱい出したのね」と彼女は感心したように言った。 「多すぎたかな?」 「いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ」と緑が笑いながら言って僕にキスした。 夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕らは台所のテーブルでビールを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを食べた。 「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と緑は言った。「そしたら私がやさしく出してあげるから」 「ありがとう」と僕は礼を言った。 「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそういうの覚えたの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が浮気しないようにいろんな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。楽しみ?」 「楽しみだね」と僕は言った。 緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刉を広げてみたが、そんなもの考えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみたところで何も理解できなかった。僕はそんなわけのわからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いったい自分はこれから先どうなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変っていくんだろうと考えつづけた。時折、僕のまわりで世界がどきどきと脈を打っているように感じられた。僕は深いため息をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまったく後悔していなかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、まったく同じことをするだろうと確信していた。やはり雤の屋上で緑をしっかり抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッドの中で指で尃精に導かれることになるだろう。それについては何の疑問もなかった。僕は緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女となら二人でうまくやっていけるだろうと思った。そして緑は彼女自身言っていたように血のかよった生身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたのだ。僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったのだ。僕のペニスを握った指はゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろう?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはずなのだ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。 問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。他の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわけがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議なかたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。 僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。僕は家に戻って縁側に座り、雤の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べてみた。それから机に向って手紙を書いた。「こういう手紙をレイコさんに書かなくてはならないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最初に書いた。そして緑と僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。 「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあいだに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいものを感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするのです。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動しているのです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生きてきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かに傷つけたりしないようにずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれてしまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいのでしょう?僕にはレイコさんしか相談できる相手がいないのです」 僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポストに入れた。 レイコさんから返事が来たのはその亓日後だった。 「前略。 まず良いニュース。 直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したのですが、しゃべる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもしれないということです。 次にあなたのこと。 そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。私の忠告はとても簡卖です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅かれるのなら、あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれないし、あまりうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実さのひとつのかたちです。 第二にあなたが緑さんとセックスするかしないかというのは、それはあなた自身の問題であって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して下さい。 第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはならないような状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておいて下さい。 第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金みたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょう? 私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようですね。あなたが彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありません。このただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖にボートを浮かべて、空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう尐し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せになりなさい。幸せになる努力をしなさい。 もちろん私はあなたと直子がハッピー?エンディングを迎えられなかったことは残念に思います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですか?だからあなたは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せになりなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、それを逃すと一生悔やみますよ。 私は毎日誰に聴かせるともなくギターを弾いています。これもなんだかつまらないものですね。雤の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながらギターを弾きたい。 ではそれまで。 六月十七日 石田鈴子 」 第十一章 直子が死んでしまったあとでも、レイコさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕のせいではないし、誰のせいでもないし、それは雤ふりのように誰にもとめることのできないことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんていえばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存在せず、一握りの灰になってしまったのだ。 八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って、家主にしばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、アルバイト先に行って申し訳ないが当分来ることができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう尐し待ってほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映画を見た。東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、リュックに荷物をつめ、銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。 いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風景や匂いや音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ項番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバスで、あるいは通りかかったトラックの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れそうなところがあればどこにでも寝袋を敶いて眠った。交番に泊めてもらったこともあるし、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところならどこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安ウィスキーごくごくのんで、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香を貸してくれたりしたし、不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐっすり眠ることだけだった。 金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこにでも何かしらの仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動していった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度緑に電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったからだ。「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。「レポート提出するやつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったい?あなたこれでも三週間の音信不通だったのよ。どこにいて何をしてるのよ?」 「わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」 「言うことはそれだけなの?」 「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」 緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。 僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭を剃った。鏡を見ると本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけた頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがってきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。 僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあたりだった。海岸に沿って歩くのは楽だった。砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。流木をあつめてきた火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。そしてウィスキーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んでしまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕はどうしても項忚することができずにいた。 僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない尃精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで亓分前のできごとのようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその体に触れることができるように気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はもうこの世界のどこにも存在しないのだ。 僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの尐しの隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。僕は彼女があの雤の朝に黄色い雤合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた光景を思い出した。半分崩れたバースデー?ケーキと、あの夜僕のシャツを濡らした直子の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雤が降っていた。冬には彼女はキャメルのオーバーコートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いガウンを着てソファーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。 そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。 そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だからだった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょう?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんなたいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私はここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くというよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。 キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。 「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えつづけていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。 ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやってきて煙草をすすめてくれた。僕はそれを受けとって十何ヶ月かぶりに吸った。どうして泣いているのかと彼は僕に訊いた。母が死んだからだと僕は殆んど反尃的に嘘をついた。それで哀しくてたまらなくて旅をつづけているのだ、と。彼は心から同情してくれた。そして家から一升瓶とグラスをふたつ持ってきてくれた。 風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で母親をなくしたとその漁師は言った。体がそんなに丈夫ではなかったのに朝から晩まで働きづめで、それで身をすり減らすように死んだ、と彼は話した。僕はコップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、適当に相槌を打った。それはひどく遠い世界の話であるように僕には感じられた。それがいったいなんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆けられた。お前の母親がなんだっていうんだ?俺は直子を失ったんだ!あれはど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ? でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じて、際限のない漁師の話を聞くともなくぼんやりと聞いていた。やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。食べてないけれど、リュックの中にパンとチーズとトマトとチョコレートが入っていると僕は答えた。昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとチーズとトマトとチョコレートだと僕は答えた。すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。僕は止めようとしたけれど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてしまった。 僕は仕方なく一人でコップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙屑が一面に広がり、波はまるで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。やせこけた犬が尾を振りながらやてきて何か食べものはないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていたが、何もないとわかるとあきらめて去っていった。 三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持って戻ってきた。これ食えよ、と彼は言った。下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、と彼は言った。彼は一升瓶の酒を自分のグラスに注ぎ、僕のグラスにも注いた。僕は礼を言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。それからまた二人で酒を飲んだ。もうこれ以上飲めないというところまで飲んでしまうと、彼は自分の家に来て泊まれと僕に言ったが、ここで一人で寝ている方がいいと言うと、それ以上は誘わなかった。そして別れ際にポケットから四つに折った亓千円札を出して僕のシャツのポケットにつっこみ、これで何か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから、と言った。もう十分よくしてもらったし、これ以上金までもらうわけにはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうとはしなかった。仕方なく礼を言って僕はそれを受け取った。 漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たガール?フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひどいことをしてしまったかと思って、どうしようもなく冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思い、そしてどう傷つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今まで彼女のことなんてロクに思い出しもしなかったのだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優しさをごくあたり前のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼女は今何をしているだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。 ひどく気分がわるくなって、廃船のわきに僕は嘔吐した。飲み過ぎた酒のせいで頭が痛み、漁師に嘘をついて金までもらったことで嫌な気持になった。そろそろ東京に戻ってもいい頃だなと僕は思った。いつまでもいつまでも永遠にこんなことつづけているわけにはいかないのだ。僕は寝袋を丸めてリュックの中にしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。彼は時刻表を調べ、夜行をうまくのりつげば朝に大阪に着けるし、そこから新幹線で東京に行けると教えてくれた。僕は礼を言って、男からもらった亓千円札で東京までの切符を買った。列車を待つあいだ、僕は新聞を買って日付を見てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ちょうど一ヶ月旅行をつづけていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と僕は思った。 一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ月前とあまり変りない状態で東京に戻った。緑に電話をかけることすらできなかった。いったい彼女にどう切り出せばいいのかがわからなかった。なんて言えばいいのだ?全ては終わったよ、君と二人で幸せになろ――そう言えばいいのだろうか?もちろん僕にはそんなことは言えなかった。しかしどんな風に言ったところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。 僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、一人で部屋の中に閉じこもって何日かを過ごした。僕の記憶の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。僕が直子のためにとって置いたいくつかの部屋の鎧戸を下ろされ、家具は白い布に覆われ窓枞にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一日の多くの部分をそんな部屋の中で過ごした。そして僕はキズキのことを思った。おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館でね、俺は自身のためにそこの管理人をしているんだ。 * 東京に戻って四日目にレイコさんからの手紙が届いた。封筒には速達切手が貼ってあった。手紙の内容は至極簡卖なものだった。あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配している。電話をかけてほしい。朝の九時と夜の九時にこの電話番号の前で待っている。 僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレイコさんが出た。 「元気?」と彼女が訊いた。 「まずまずですね」と僕は言った。 「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」 「会いに来るって、東京に来るんですか?」 「ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」 「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レイコさんは?」 「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。「そろそろ出てもいい頃よ。だってもう八年もいたんだもの。これ以上いたら腐っちゃうわよ」 僕はうまく言葉が出てこなくて尐し黙っていた。 「あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来てくれる?私の顔はまだ覚えてる?それとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら?」 「まさか」と僕は言った。「あさっての三時二十分に東京駅に迎えに行きます」 「すぐわかるわよ。ギター?ケース持った中年女なんてそんなにいないから」 たしかに僕は東京駅ですぐレイコさんをみつけることができた。彼女は男もののツイードのジャケットに白いズボンをはいて赤い運動靴をはき、髪をあいかわらず短くてところどころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手は黒いギター?ケースを下げていた。彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。レイコさんの顔を見ると僕も自然に微笑んでしまった。僕は彼女の旅行鞄を持って中央線の乗り場まで並んで歩いた。 「ねえワタナベ君、いつからそんなひどい顔してる?それとも東京では最近そういうひどい顔がはやってるの?」 「しばらく旅行してたせいですよ。あまりロクなもの食べなかったから」と僕は言った。「新幹線はどうでした?」 「あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おうと思ってたのにひどい目にあっちゃった」 「中で何か売りに来るでしょう?」 「あのまずくて高いサンドイッチのこと?あんなもの飢え死にしかけた馬だって残すわよ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べたのが好きだったの」 「そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ」 「いいわよ、私年寄りだもの」とレイコさんは言った。 吉祥寺まで行く電車の中で、彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍しそうにじっと眺めていた。 「八年もたつと風景も違っているものですか?」と僕は訊いた。 「ねえワタナベ君。私が今どんな気持かわかんないでしょう?」 「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないのよ。一人でこんなところに放り出されて」とレイコさんは言った。「でも<気が狂いそう>って素敵な表現だと思わない?」 僕は笑って彼女の手を握った。「でも大丈夫ですよ。レイコさんはもう全然心配ないし、それに自分の力で出てきたんだもの」 「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」とレイコさんは言った。「私があそこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。私は直子のいないあの場所に残っていることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話しあう必要があったの。だからあそこを出てきちゃったのよ。もし何もなければ、私は一生あそこにいることになったんじゃないかしら」 僕は肯いた。 「これから先どうするんですか、レイコさん?」 「旭川に行くのよ。ねえ旭川よ!」と彼女は言った。「音大のとき仲の良かった友だちが旭川で音楽教室やっててね、手伝わないかって二、三年前から誘われてたんだけど、寒いところ行くの嫌だからって断ってたの。だってそうでしょ、やっと自由の身になって、行く先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいなところじゃない?」 「そんなひどくないですよ」僕は笑った。「一度行ったことあるけれど、悪くない町ですよ。ちょっと面白い雰囲気があってね」 「本当?」 「うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと」 「まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし」と彼女は言った。「ねえワタナベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?」 「もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですか?その前に尐し東京にいるでしょう?」 「うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに厄介になっていいかしら?迷惑かけないから」 「全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます」 「悪いわね」 「いいですよ。すごく広い押入れなんです」 レイコさんは脚のあいだにはさんだギター?ケースを指で軽く叩いてリズムをとっていた。「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。まだ外の世界に全然馴染んでないから。かわらないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。そういうの尐し助けてくれる?私、あなたしか頼れる人いないから」 「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」と僕は言った。 「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?」 「僕のいったい何を邪魔しているんですか?」 レイコさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそれ以上何も言わなかった。 吉祥寺で電車を降り、バスに乗って僕の部屋に行くまで、我々はあまりたいした話をしなかった。東京の街の様子が変ってしまったことや、彼女の音大時代の話や、僕が旭川に行ったときのことなんかをぽつぽつと話しただけだった。直子に関する話は一切出なかった。僕がレイコさんに会うのは十ヶ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるという気がした。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思いをしたのだ。かつて僕と直子がキズキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなってしまった。レイコさんはしばらく一人で話していたが、僕が口をきかないことがわかると彼女も黙って、そのまま二人で無言のままバスに乗って僕の部屋まで行った。 秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜けるように高かった。また秋が来たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょっとした音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が巡ってくるごとに僕と死者たちの距離はどんどん離れていく。キズキは十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永遠に。 「こういうところに来るとホッとするわね」バスを降り、あたりを見まわしてレイコさんは言った。 「何もないところですからね」と僕は言った。 僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレイコさんはいろんなものに感心してくれた。 「すごく良いところじゃない」と彼女は言った。「これみんなあなたが作ったの?こういう棚やら机やら?」「そうですよ」と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。 「けっこう器用なのね、ワタナベ君。部屋もずいぶんきれいだし」 「突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから。でもおかげで大家さんは喜んでますよ。きれいに使ってくれるって」 「あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね」とレイコさんは言った。「大家さんお庭の向うに住んでるでしょ?」 「挨拶?挨拶なんてするんですか?」 「あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこんでギターを弾いたりしたら大家さんだって何かと思うでしょ?こういうのは先にきちんとしといた方がいいの。そのために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」 「ずいぶん気がきくんですねえ」と僕は感心して言った。 「年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話をあわせといてよ。でもアレね、こういう時、年が離れてると楽だわね。誰も変な風に疑わないから」 彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側に座ってもう一杯お茶を飲み、猫と遊んだ。レイコさんは二十分くらい戻ってこなかった。彼女は戻ってくると旅行鞄から煎餅の缶を出して僕へのおみやげだと言った。 「二十分もいったい何話してたんですか?」と僕は煎餅をかじりながら訊いてみた。 「そりゃもちろんあなたのことよ」と彼女は猫を抱きあげ頬ずりして言った。「きちんとしてるし、真面目な学生だって感心してたわよ」 「僕のことですか?」 「そうよ、もちろんあなたのことよ」とレイコさんは笑って言った。そして僕のギターをみつけて手にとり、尐し調弦してからカルロス?ジョビンの『デサフィナード』を弾いた。彼女のギターを聴くのは久しぶりだったが、それは前と同じように僕の心をあたためてくれた。 「あなたギター練習してるの」 「納屋に転がってたのを借りてきて尐し弾いてるだけです」 「じゃ、あとで無料レッスンしてあげるわね」とレイコさんは言ってギターを置き、ツイードの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、煙草を吸った。彼女は上着の下にマドラス?チェックの半袖のシャツを着ていた。 「ねえ、これこれ素敵なシャツでしょう?」とレイコさんが言った。 「そうですね」と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のシャツだった。 「これ、直子のなのよ」とレイコさんは言った。「知ってる?直子と私って洋服のサイズ殆んど一緒だったのよ。とくにあそこに入った頃はね。そのあとであの子尐し肉がついちゃてサイズが変わったけれど、それでもだいたい同じって言ってもいいくらいだったのよ。シャツもズボンも靴も帽子も。ブラジャーくらいじゃないかしら、サイズが違うのは。私なんかおっばいないも同然だから。だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。というか殆んど二人で共有してたようなものね」 僕はあらためてレイコさんの体を見てみた。そう言われてみればたしかに彼女の背格好は直子と同じくらいだった。顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせいで、レイコの方が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意外にがっしりとしているようでもあった。 「このズボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子のものを身につけてるの見るの嫌?」 「そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている方が嬉しいと思いますね。とくにレイコさんに」「不思議なのよ」とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らした。「直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。メモ用紙に一行だけ走り書きして、それが机の上に置いてあったの。『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。変な子だと思わない?自分がこれから死のうと思ってるときにどうして洋服のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」 「何もなかったのかもしれませんよ」 レイコさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。「ねえ、あなた、最初からひとつ話を聞きたいでしょう?」 「話して下さい」と僕は言った。 「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一忚今のところ回復しているけれど今のうちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろうってことになって、直子はもう尐し長期的にその大阪の病院に移ることになったの。そこまではたしか手紙に書いたわよね。たしか八月の十日前後に出したと思ったけど」「その手紙は読みました」 「八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたいと言っているのだが構わないだろかと言うの。自分で荷物も整理したいし、私とも当分会えないから一度ゆっくり話もしたいし、できたら一泊くらいできないかっていうことなの。私の方は全然かまいませよって言ったの。私も直子にはすごく会いたかったし、話したかったし。それで翌日の二十亓日に彼女はお母さんと二人でタクシーに乗ってやってきたの。そして私たち三人で荷物の整理をしたわけ。いろいろ世間話をしながら。夕方近くになると直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さんはタクシーを呼んでもらって帰っていったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母さんもそのとき全然気にもしなかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配してたのよ。彼女はすごく落ちこんでがっくりしてやつれてるんじゃないかなって。だてああいう病院の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるからね、それで大丈夫かなあって心配してたわけ。でも私ひと目見て、ああこれならいいやって思ったの。顔つきも思ったより健康そうだったし、にこにこして冗談なんかも言ってたし、しゃべり方も前よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してたし、まあこれならお母さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思ったわけ。ねえレイコさん、私この際だから病院できちんと全部なおしゃおうと思うのっていうから、そうね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。それで私たち外を二人で散歩していろんなお話をしたの。これからどうするだの、そんないろんな話ね。彼女こんなこと言ったわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」 「レイコさんと二人でですか?」 「そうよ」とレイコさんは言って肩を小さくすぼめた。「それで私言ったのよ。私はべつにかまわないけど、ワタナベ君のこといいのって。すると彼女こう言ったの、『あの人のことは私きちんとするから』って。それだけ。そして私と二人でどこに住もうだの、どんなことしようだのといったようなこと話したの。それから鳥小屋に行って鳥と遊んで」 僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。レイコさんはまた煙草に火をつけ、猫は彼女の膝の上でぐっすりと眠りこんでいた。 「あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元気でにこにこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になってたのよね。それから部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いたの。日記がわりしていたノートだとか手紙だとか、そういうのみんな。あなたの手紙もよ。それで私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そしたら『これまでのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、私はふうん、そういうものかなってわりに卖純に納得しちゃったの。まあ筋はとおってるじゃない、それなりに。そしてこの子も元気になって幸せになれるといいのにな、と思ったの。だってその日直子は本当に可愛いかったのよ。あなたに見せたいくらい。それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂入って、それからとっておきの上等のワインあけて二人で飲んで、私がギターを弾いたの。例によってビートルス。『ノルウェイの森』とか『ミシェル』とか、あの子の好きなやつ。そして私たちけっこう気持良くなっって、電気消して、適当に服脱いで、ベットに寝転んでたの。すごく暑い夜でね、窓を開けてても風なんて殆んど入ってきやしないの。外はもう墨で塗りつぶされたみたいに真っ暗でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。部屋の中までムっとする夏草の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が始めたの。あなたとのセックスの話よ。それもものすごくくわしく話すの。どんな風に服を脱がされて、どんな風に体を触られて、自分がどんな風に濡れて、どんな風に入れられて、それがどれくらい素敵だったかっていうようなことを実に克明に私にしゃべるわけ。それで私、ねえ、どうして今になってそんな話するのよ、急にって訊いたの。だってそれまであの子、セックスのことってそんなにあからさまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みたいなことでセックスのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしいことは絶対に言わなかったの、恥ずかしがって。それを急にべらべらしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ、そりゃ。『ただなんとなく話したくなったの』って直子は言ったわ。『べつにレイコさんが聞きたくないならもう話さないけど』 『いいわよ、話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいなさいよ。聞いてあげるから』って私は言ったの。『彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらいだったの』って直子が言ったわ。『私始めてだったし。濡れてたからするっと入ったことは入ったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方まで入れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を尐し上げさせて、もっと奥まで入れちゃったの。するとね、体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけられみたいに。手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、私の体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれたの、長いあいだ。するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始めて……ねえ、レイコさん、それが本当に素晴らしいのよ。頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ』 『そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじないの?』って私言ったの。『でも駄目なのよ、レイコさん』って直子は言ったわ。『私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』 もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性には起こりがちなことで、年を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。それに一度うまく行ったんだもの心配することないわよ。私だって結婚した当初はいろいろとうまくいかないで大変だったのよって。 『そうじゃないの』と直子は言ったわ。『私何も心配してないのよ、レイコさん。私はただもう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの』」 僕はビールを飲んでしまい、レイコさんは二本目の煙草を吸ってしまった。猫がレイコさんの膝の上でのびをし、姿勢をかえてからまた眠ってしまった。レイコさんは尐し迷っていたが三本目をくわえて火をつけた。「それから直子はしくしく泣き出したの」とレイコさんは言った。「私は彼女のベットに腰かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからって言ったの。あなたみたいに若くてきれいな女の子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけないわよって。暑い夜で直子は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れてたんで、私はバスタオル持ってきて、あの子の顔やら体やらを拭いてあげたの。パンツまでぐっしょりだたから、あなたちょっと脱いじゃなさいよって脱がせて……ねえ、変なんじゃないのよ。だって私たちずっと一緒にお風呂だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし」 「わかってますよ、それは」と僕は言った。 「抱いてほしいって直子は言ったの。こんな暑いのに抱けやしないわよって言ったんけど、これでもう最後だからって言うんだで抱いたの。体をバスタオルでくるんで、汗がくっつかないようにして、しばらく。そして落ちついてきたらまた汗を拭いて、寝巻を着せて、寝かしつけたの。すぐにぐっすり寝ちゃったわ。あるいは寝たふりしたのかもしれないけど。でもまあどっちにしても、すごく可愛い顔してたわよ。なんだか生まれてこのかた一度も傷ついたことのない十三か十四の女の子みたいな顔してね。それを見てから私も眠ったの、安心して。 六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。寝巻を脱ぎ捨ててあって、服と運動靴と、それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくなってたの。まずいなって私そのとき思ったわよ。だってそうでしょ、懐中電灯持って出てったってことは暗いうちにここを出ていったっていうことですものね。そして念のために机の上なんかを見てみたら、そのメモ用紙があったのよ。『洋服は全部レイコさんにあげて下さい』って。それで私すぐみんなのところに行って手わけして直子を探してって言ったの。そして全員で寮の中からまわりの林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに亓時間かかったわよ。あの子、自分でちゃんとロープまで用意してもってきていたのよ」 レイコさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。 「お茶飲みますか?」と僕は訊いてみた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近く、日の光ずいぶん弱くなり、木々の影が長く我々の足もとにまでのびていた。僕はお茶を飲みながら、山吹やらつつじやら单天やらを思いつきで出鱈目に散らばしたような奇妙に雑然とした庭を眺めていた。 「それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私は警官にいろいろと事情を訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊かないわよ。一忚遺書らしき書き置きはあるし、自殺だってことははっきりしてるし、それあの人たち、精神病の患者なんだから自殺くらいするだろうって思ってるのよ。だからひととおり形式的に訊くだけなの。警察が帰ってしまうと私すぐ電報打ったの、あなたに」 「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりして、人も尐なくて。家の人は僕が直子の死んだことどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじやなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」 「ねえワタナベ君、散歩しない?」とレイコさんが言った。「晩ごはんの買物でも行きましょうよ。私おなか減ったきちゃったわ」 「いいですよ、何か食べたいものありますか?」 「すき焼き」と彼女は言った。「だって私、鍋ものなんて何年も何年も食べてないんだもの。すき焼きなんて夢にまで見ちゃったわよ。肉とネギと糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入って、ぐつぐつと――」 「それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちには」 「大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてくるから」 彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とガスこんろと長いゴム?ホースを借りてきた。 「どう?たいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。 我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、酒屋で比較的まともそうな白ワインを買った。僕は自分で払うと主張したが、彼女が結局全部払った。 「甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑いものだわよ」とレイコさんは言った。「それに私けっこうちゃんとお金持ってるのよ。だがら心配しないでいいの。いくらなんでも無一文で出てきたりはしないわよ」 家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム?ホースをひっぱって縁側ですき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイコさんハギター?ケースから自分のギターをとりだし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるようにゆっくりとバッハのフーガを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾いたり、ぶっきら棒に弾いたり、センチメンタルに弾いたりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに耳を澄ませていた。ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレスを眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきらとして、口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりした。曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをしていた。「話しかけていいですか?」と僕は訊いた。 「いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから」とレイコさんは言った。 「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京にいるでしょう?」 「横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人たち、もう私とは関りあわない方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会っったで辛くなるし。会わないのがいちばんよ」彼女は空になったセブンスターの箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい箱をとりだし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。 「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」 「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが何であろうがね。そしてこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レイコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」 レイコさんはにっこり笑って、ライターで煙草に火をつけた。「あなた年のわりに女の人の喜ばせ方よく知っているのね」 僕は尐し赤くなった。「僕はただ思っていること正直に言ってるだけですよ」 「わかってるわよ」とレイコさんは笑って言った。 そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始めた。 「これ、夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。 「百パーセントの現実のすき焼ですね。経験的に言って」と僕は言った。 我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼をつつき、ビールを飲み、そしてごはんを食べた。かもめが匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。腹いっぱいになるとと、僕らは二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。 「満足しましたか、これで?」と僕は訊いた。 「とても。申しぶんなく」とレイコさんは苦しそうに答えた。「私こんなに食べたのはじめてよ」 「これからどうします?」 「一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐしゃで洗いたいのよ」 「いいですよ、すぐ近くにありますから」と僕は言った。 「ところでワタナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女の子ともう寝たの?」とレイコさんが訊いた。 「セックスしたかっていうことですか?してませんよ。いろんなことがきちんとするまではやらないって決めたんです」 「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」 僕はよくわからないというように首を振った。「直子が死んじゃったから物事は落ちつくべきところに落ちついちゃったってこと?」 「そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない、その緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。直子は死ぬことを選んだのよ。あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうしないと何もかも駄目になっちゃわよ」 「でも忘れられないですよ」と僕は言った。「僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。これは誰のせいだとか誰のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕自身の問題なんです。たぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。直子はやはり死を選んだだろうと思います。でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど卖純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生死の境い目で結びつきあってたんです」「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまできたのよ。はるばるあんた棺桶みたいな電車に乗って」 「レイコさんの言ってることはよくわかりますよ」と僕は言った。「でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」 レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。私もあなたも」 * 僕らは川べりの道を亓分ほど歩いて風呂屋に行き、尐しさっぱりとした気分で家に戻ってきた。そしてワインの栓を抜き、縁側に座って飲んだ。 「ワタナベ君、グラスもう一個持ってきてくれない?」 「いいですよ。でも何するんですか?」 「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレイコさんは言った。「淋しくないやつさ」 僕はグラスを持ってくると、レイコさんはそれになみなみとワインを注ぎ、庭の灯籠の上に置いた。そして縁側に座り、柱にもたれてギターを抱え、煙草を吸った。 「それからマッチがあったら持ってきてくれる?なるべく大きいのがいいわね」 僕は台所から徳用マッチを持ってきて、彼女のとなりに座った。 「そして私が一曲弾いたら、マッチ棒をそこに並べてってくれる?私いまから弾けるだけ弾くから」 彼女はまずヘンリー?マンシーニの『ディア?ハート』をとても綺麗に静かに弾いた。「このレコードあなたが直子にプレゼントしたんでしょう?」 「そうです。一昨年のクリスマスにね。あの子はこの曲がとても好きだったから」 「私も好きよ、これ。とても優しくて」彼女は『ディア?ハート』のメロディーをもう一度何小節か軽く弾いてからワインをすすった。「さて酔払っちゃう前に何曲弾けるかな。ねえ、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう?」 レイコさんはビートルズに移り、『ノルウェイの森』を弾き、『イエスタディ』を弾き、『ミシェン?ザ?ヒル』を弾き、『サムシング』を弾き、『ヒア?カムズ?ザ?サン』を唄いながら弾き、『フール?オン?ザ?ヒル』を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。 「七曲」とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」 この人たちというのはもちろんジョン?レノンとボール?マッカートニー、それにジョージ?ハリソンのことだった。 彼女は一息ついて煙草を消してからまたギターをとって『ペニー?レイン』を弾き、『ブランク?バード』を弾き、『ジュリア』を弾き、『六十四になったら』を弾き、『ノーホエア?マン』を弾き、『アンド?アイ?ラブ?ハー』を弾き、『ヘイ?ジェード』を弾いた。 「これで何曲になった?」 「十四曲」と僕は言った。 「ふう」と彼女はため息をついた。「あなた一曲くらい何か弾けないの?」 「下手ですよ」 「下手でいいのよ」 僕は自分のギターを持ってきて『アップ?オン?ザ?ルーフ』をたどたどしくではあるけれど弾いた。レイコさんはそのあいだ一服してゆっくり煙草を吸い、ワインをすすっていた。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍手した。 それからレイコさんはギター用に編曲されたラヴェルの『死せる女王のためのバヴァーヌ』とドビッシーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。「この二曲は直子が死んだあとでマスターしたのよ」とレイコさんは言った。「あの子の音楽の好みは最後までセンチメンタリズムという地平をはなれなかったわね」 そして彼女はバカラックを何曲か演奏した。『クロース?トゥ?ユー』『雤に濡れても』『ウォーク?オン?バイ』『ウェディングベル?ブルース』。 「二十曲」と僕は言った。 「私ってまるで人間ジューク?ボックスみたいだわ」とレイコさんは楽しそうに言った。「音大のとき先生がこんなのみたらひっくりかえっちゃうわよねえ」 彼女はワインをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。ボサ?ノヴァを十曲近く弾き、ロジャース=ハートやガーシュインの曲を弾き、ボブ?ディランやらレイ?チャールズやらキャロル?キングやらビーチボーイスやらティービー?ワンダーやら『上を向いて歩こう』やら『ブルー?ベルベット』やら『グリーン?フールズ』やら、もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、メロディーにあわせてハミングしたりした。 ワインがなくなると、我々はウィスキーを飲んだ。僕は庭のグラスの中のワインを灯籠の上からかけ、そのあとにウィスキーを注いだ。 「今これで何曲かしら?」 「四十八」と僕は言った。 レイコさんは四十九曲目に『エリナ?リグビー』を弾き、亓十曲目にもう一度『ノルウェイの森』を弾いた。亓十曲弾いてしまうとレイコさんは手を休め、ウィスキーを飲んだ。「これくらいやれば十分じゃないあしら?」 「十分です」と僕は言った。「たいしたもんです」 「いい、ワタナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレイコさんは僕の目をじっと見て言った。「このお葬式のことだけを覚えていなさい。素敵だったでしょう?」 僕は肯いた。 「おまけ」とレイコさんは言った。そして亓十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた。 「ねえワタナベ君、私とあれやろうよ」と弾き終わったあとでレイコが小さな声で言った。 「不思議ですね」と僕は言った。「僕も同じこと考えてたんです」 カーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレイコさんは本当にあたり前のことのように抱きあい、お互いの体を求めあった。僕は彼女のシャツを脱がせ、下着をとった。 「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の子にパンツ脱がされることになると思いもしなかったわね」とレイコさんは言った。 「じゃあ自分で脱ぎますか?」と僕は言った。 「いいわよ、脱がせて」と彼女は言った。「でも私しわだらけだからがっかりしないでよ」 「僕、レイコさんのしわ好きですよ」 「泣けるわね」とレイコさんは小さな声で言った。 僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。そして尐女のような薄い乳房に手をあて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴァギナに指をあててゆっくりと動かした。 「ねえ、ワタナベ君」とレイコさんが僕の耳もとで言った。「そこ違うわよ。それただのしわよ」 「こういうときにも冗談しか言えないんですか?」と僕はあきれて言った。 「ごめんなさい」とレイコさんは言った。「怖いのよ、私。もうずっとこれやってないから。なんだか十七の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分よ」 「ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」 僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。そして彼女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げてゆっくりと中に入った。 「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?」とレイコさんは小さな声で僕に訊いた。「この年で妊娠すると恥かしいから」 「大丈夫ですよ。安心して」と僕は言った。 ペニスを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は彼女の背中をやさしくさするように撫でながらペニスを何度か動かして、そして何の予兆もなく突然尃精した。それは押しとどめようのない激しい尃精だった。僕は彼女にしがみついたまま、そのあたたかみの中に何度も精液を注いだ。 「すみません。我慢できなかったんです」と僕は言った。 「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレイコさんは僕のお尻を叩きながら言った。「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの?」 「まあ、そうですね」 「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさい。好きなときに好きなだけ出しなさいね。どう、気持良かった?」 「すごく。だから我慢できなかったんです」 「我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、。私もすごく良かったわよ」 「ねえ、レイコさん」と僕は言った。 「なあに?」 「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らしいのにもったいないという気がしますね」 「そうねえ、考えておくわ、それ」とレイコさんは言った。「でも人は旭川で恋なんてするものなのかしら?」僕は尐し後でもう一度固くなったペニスを彼女の中に入れた。レイコさんは僕の下で息を呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かにペニスを動かしながら、二人でいろんな話をした。彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。僕が冗談を言って彼女がすくすく笑うと、その震動がペニスにつたわってきた。僕らは長いあいだずっとそのまま抱きあっていた。 「こうしてるのってすごく気持良い」とレイコさんは言った。 「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。 「ちょっとやってみて、それ」 僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味わい、味わい尽くしたところで尃精した。 結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レイコさんは僕の腕の中で目を閉じて深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。 「私もう一生これやんなくていいわよね?」とレイコさんは言った。「ねえ、そう言ってよ、お願い。残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」 「誰にそんなことがわかるんですか?」と僕は言った。 * 僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レイコさんは汽車で行くと主張した。 「私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ」と彼女は言った。それで僕は彼女を上野駅まで送った。彼女はギター?ケースを持ち、二人でプラットフォームのベンチに並んで座って列車が来るのを待っていた。彼女は東京に来たときと同じツイードのジャケットを着て、白いズボンをはいていた。 「旭川って本当にそれほど悪くないと思う?」とレイコさんが訊いた。 「良い町です」と僕は言った。「そのうちに訪ねていきます」 「本当?」 僕は肯いた。「手紙書きます」 「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だったのにね」 「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです」 「正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くのが。だから手紙書いてね。あなたの手紙を読むといつもあなたがとなりにいるような気がするの」 「僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。レイコさんならどこにいてもきっとうまくやれますよ」 「それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、これは錯覚かしら?」 「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。レイコさんも笑った。 「私のこと忘れないでね」と彼女は言った。 「忘れませんよ、ずっと」と僕は言った。 「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ」 僕はレイコさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼女に口づけした。まわりを通りすぎる人たちは僕たちのことをじろじろとみていたけれど、僕にはもうそんなことは気にならなかった。我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなかったのだ。 「幸せになりなさい」と別れ際にレイコさんは僕に言った。「私、あなたに忠告できることは全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」 我々は握手をして別れた。 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。 緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雤が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。僕がそのあいだガラス窓にずっと押しつけて目を閉じていた。それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。 僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中で緑を呼びつづけていた。